A年年間第19主日
静かにささやく声絶え間ない痛みなぜ疑ったのか

第一朗読
列王記上 19章9a、11―13a節

 9a エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。
 11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
  12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやくが聞こえた。
  13a それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。

 

 

 

 

第一朗読 

列王記上 19章9a、11―13a節

   ささやき・デマーマー

 この語は動詞ダーマム〈口が不自由で沈黙している〉から派生した名詞ですが、旧約聖書では3回しか使われていません。
 まず、ヨブ4:16「ただ、目の前にひとつの形があり、《沈黙があり、声が聞こえた》」では、ヨブの友人エリファズの神秘体験を述べるために使われています。点線部(《 》内)を直訳すると、「<沈黙が>、そして声を私は聞いた」となります。
 次に詩107:29「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」を直訳すると、「主は嵐を<沈黙>に変えた、波は静かになった」となります。
 今週の朗読箇所を新共同訳は「静かにささやく声が聞こえた」と訳していますが、原文を直訳すれば、「声が、かすかな沈黙が」となります。ヨブ4:16と詩107:29の用例でも「ささやき」と訳せそうですが、動詞ダーマムには「ささやく」という意味はないので、やはり「沈黙」を考えるべきです。そうであれば、今週の朗読でも、もともとは「沈黙」であり、「声」が付加されることによって、「ささやき」の意味にされたのかもしれません。

 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 9章1―5節

 1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
  2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心に絶え間ない痛みがあります。
  3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
  4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
  5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
第二朗読 

ローマの信徒への手紙 9章1―5節

   心・カルディアー

 まず、この語は物質的生活の中枢、根源を指します。神は恵みを与え、食物を施して人の「心」を喜びで満たしましたが(使14:17)、ぜいたくに暮らして「心」を太らせる人がいます(ヤコ5:5)。
 次に、思考、感情、意志力を含めた精神生活全体の中枢を表します(ルカ16:15、1テサ2:4)。「心」は思考能力、思考そのもの、理解の中枢であり(マタ13:15、2コリ4:6)、そこから意志とその決定が起こり(ルカ21:14、2コリ9:7)、悪徳でも美徳でも、道徳的な決意や生活が生まれます(ヤコ4:8、ヘブ10:22)。さらに、感情、願望、欲望、意向が生じ(ヨハ16:6、使4:32)、ことに愛が起こり(マコ12:30並行)、良心の意味でも用いられます(1ヨハ3:20)。また、人の「心」は天の力や存在が宿るところでもあります(ロマ5:5)。
 また、転義して、「内部、中央」の意味でも用いられます(マタ12:40)。
 つまずいた同胞を思うパウロの「心」には絶え間ない痛みがあり、彼は深く悲しんでいます。なぜなら、すべての人の救いを望んで、イエスを遣わした神の愛がパウロの心に注がれているからです。

 

 

今週の福音
マタイによる福音書 14章22―33節

 22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
  23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
  24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
  25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
  26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
  27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
  28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
  29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
  30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
  31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
  32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
今週の福音 

マタイによる福音書 14章22―33節

   安心する・サルセオー

 この語は「(恐れや不安がなく)安心している・元気でいる」を意味します。新約聖書での用例は7例ですが、いずれも命令形で使われています。ですから、この語は恐れや不安に取り付かれたものを慰め励ます言葉だと言えます。
 床に寝かされたままイエスの前に運び込まれた中風の人に「子よ、<元気を出しなさい>。あなたの罪は赦される」とイエスは告げて、いやします(マタ9:2)。イエスの後ろからイエスの服の房に触れた女性に「娘よ、<元気になりなさい>。あなたの信仰があなたを救った」と告げたとき、いやしが現実となりました(マタ9:22)。イエスの指示を受けた人々がバルティマイに「<安心しなさい>。立ちなさい。お呼びだ」と告げ、イエスのもとに導くと、目がいやされ見えるようになりました(マコ10:49)。受難を前にしたイエスは「<勇気を出しなさい>。わたしは既に世に勝っている」と弟子たちに告げ(ヨハ16:33)、復活してパウロに現れたイエスは「勇気を出せ」と述べ、ローマでの証しを求めました(使23:11)。



 

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