A年年間第20主日
主のもとに集って来た異邦人が憐れみを受け娘の病気はいやされた

第一朗読
イザヤ書 56章1、6―7節

1 主はこう言われる。
   正義を守り、恵みの業を行え。
   わたしの救いが実現し
   わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
6 また、主のもとに集って来た異邦人
   主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
   安息日を守り、それを汚すことなく
   わたしの契約を固く守るなら
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
   わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
   彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
   わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
   わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 

 

 

 

第一朗読 

イザヤ書 56章1、6―7節

      異邦・ネーハール

 今週の朗読で「異邦人」と訳された句は、名詞ベーン〈息子〉とこの語による名詞句です。この語は「他所のもの」を意味します。必ず他の名詞と一緒に使われます。名詞「祭壇」(代下14:2)、名詞「土地」(詩137:4)、名詞「空しさ(=偶像)」(エレ8:19)と一緒に使われる用例も一例ずつありますが、ほとんどの用例は名詞ベーンと組み合わされて「異邦人・外国人」の意味か、あるいは名詞エローヒーム〈神々〉と一緒に使われ「異邦の神々」を表します。
 その場合、関わりを断つべき否定的なものとして扱われるのが普通です。「外国人」は過越の食事を食べてはならず(出12:43)、「外国人」から手に入れた傷のある動物をいけにえとしてささげてはなりません(レビ22:25)。また、「外国の神々」は捨て去り(創35:2)、取り除かねばなりません(ヨシュ24:23)。なぜなら、YHWHが民を導き出したとき、「外国の神」は彼と共にいなかったからです(申32:12)。
 しかし第三イザヤは、今週の朗読にあるように、異邦人の「他所もの性」が除かれるときが来ると預言します。

 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 11章13―15、29―32節

 13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
  14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
  15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
 29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
  30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
  31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
  32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
第二朗読 

ローマの信徒への手紙 11章13―15、29―32節

      招き・クレーシス

 まず、この語は「呼びかけ、呼ぶこと、招き」を意味します。新約聖書ではもっぱら宗教的意味で用いられ、神からの呼びかけ、神の国に入るようにとの招きを表します。キリスト者は、天の「召し」にあずかる聖なる兄弟であり(ヘブ3:1)、神の「招き」によって希望を与えられています(エフェ1:18)。人は、聖なる「招き」によって呼び出されて救われたのですから(2テモ1:9)、その「招き」にふさわしく歩むべきです(エフェ4:1)。そこでパウロは、「召されたときのこと」を思い起こすように勧め(1コリ1:26)、神が「招き」にふさわしいものとしてくれるように祈り(2テサ1:11)、神がキリスト・イエスによって上へ「召して」、与える賞を得るために、ひたすら走ります(フィリ3:14)。
 次に、「社会的地位、身分、召し」を意味します。おのおの召されたときの「身分」にとどまるように、とパウロは命じます(1コリ7:20)。
 パウロは、神の賜物と「招き」は取り消されないと述べます。彼がすべての人の救いのために働くことができるのは、この確信に支えられているからです。

 

 

今週の福音
マタイによる福音書 15章21―28節

 21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
  22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
  23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
  24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
  25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
  26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
  27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
  28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた
今週の福音 

マタイによる福音書 15章21―28節

      遣わす・アポステッロー

 この語は、まず@「誰かを使者として遣わす」を意味します。人々はイエスを陥れるためにファリサイ派やヘロデ派の人を「遣わし」ますが(マコ12:13)、神はメシアとしてイエスを「遣わし」(ルカ4:18)、人々の罪を贖いました(1ヨハ四10)。そこで、イエスは神を「わたしをお遣わしになった方」と呼び(マコ9:37)、イエスも十二人を「派遣し」(マコ3:14)、七十二人を「遣わします」(ルカ10:1)。
 次に、A他の動詞を伴い「人を送って、何かをさせる」ことを表します。ヘロデ王は「人を送って」、二歳以下の男児を殺させ(マタ2:16)、ヘロデは「人をやって」ヨハネを捕らえさせ、牢につなぎました(マコ6:17)
 最後にB「何か事物を送る」の意味でも使います。人は鎌を「入れて」実を取ります(マコ4:29)。神はイエス・キリストによって御言葉を「送り」(使10:36)、神の救いは異邦人に「向けられます」(使28:28)。
 今週の福音では、@の意味であり、神の救いがまずはイスラエルに向けられたことを述べています。



 

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