A年年間第22主日
あなたに捕らえられ自分を変えていただき十字架を背負って、イエスに従う

第一朗読
エレミヤ書 20章7―9節

7 主よ、あなたがわたしを惑わし
   わたしは惑わされ
    あなたに捕らえられました。
   あなたの勝ちです。
   わたしは一日中、笑い者にされ
   人が皆、わたしを嘲ります。
8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
   「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
   主の言葉のゆえに、わたしは一日中
   恥とそしりを受けねばなりません。
9 主の名を口にすまい
   もうその名によって語るまい、と思っても
   主の言葉は、わたしの心の中
     骨の中に閉じ込められて
   火のように燃え上がります。
   押さえつけておこうとして
   わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。

 

 

 

 

第一朗読 
エレミヤ書 20章7―9節

      惑わす・パーター

 この語の語根は「開けっ広げの単純さ」を意味するようです。箴20:19に「《軽軽しく唇を開く者》とは交わるな」とありますが、点線部(《 》内)を直訳すれば、「唇を<開けっ広げにする者>」となります。そこから「愚かさ」を表し、鳩のようなエフライムは「愚かで」悟りがない、とホセアは嘆きます(ホセ7:11)。
 そこから、人を罪へと「誘惑する」とか(箴1:10)、夫を「うまく言いくるめる」とか(士14:15)、処女を「誘惑する」とか(出22:15)、神がイスラエルを「いざなって」荒れ野に導く、という意味でも使われます(ホセ2:16)。
 さらに強い意味になり、「欺く」ことをも表します。王を「欺いて」動静を探るとか(サム下3:25)、神を侮り「欺く」の意味にもなります(詩78:36)。また、神が預言者を「惑わす」という用例もあります(エゼ14:9)。
 今週の朗読ではエゼ14:9と同じ意味です。このような用例は私たちを困惑させますが、苦しみがあると分かっても、神から離れることのできない預言者の「開けっ広げの心」を表したいのかもしれません。
 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙   12章1―2節

 1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
第二朗読 
ローマの信徒への手紙   12章1―2節

      善い・アガソス

 まず、目に見えるよさを表して「ふさわしい、有能な、有用な」を意味します。天の父は求める者に「良い物」を与え(マタ7:11)、上からの知恵は憐れみと「良い」実に満ちています(ヤコ3:17)。
 次に、転義して、内的な価値、特に道徳的な価値を表します。「完全な」の意味で神やキリストに用いられ、また「正しい、親切な、寛大な」の意味を表すこともあります。イエスは自分が「善い」と言われることを好まず、神のほかに「善い者」はだれもいないと答えました(マコ10:18並行)。その神は悪人にも「善人」にも太陽を昇らせます(マタ5:45)。
 また、掟は「善いもの」であり(ロマ7:12)、父なる神は「確かな」希望を与え(2テサ2:16)、あらゆる「善い」業で満たします(2コリ9:8)。ですから、キリスト者は「善」から離れず(ロマ12:9)、万事が「益」となるように働くことを(ロマ8:28)、「良い物」で満たされることを信じます(ルカ1:53)。
 今週の朗読は、「善いこと」とは、神に喜ばれる完全なことであると教えます。神の御心にそって生きるなら、人は「善いこと」を求める者となります。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 16章21―27節

 21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
  22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
  23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
  24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
  25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
  26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
  27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
今週の福音 
マタイによる福音書 16章21―27節

      打ち明ける・デイクニューミ

 この語は二つの意味で使われます。まず@「指し示す・見せる・知らせる」を意味します。悪魔がイエスを自分に仕えさせようとして「見せた」のは、すべての国々とその繁栄ぶりでした(マタ4:8)。重い皮膚病を癒したイエスは体を祭司に「見せる」ようにと指示を与えました(マコ1:44)。復活したイエスは弟子たちに手や足を「見せ」、ご自分であることを示しました(ルカ24:40)。ユダヤ人はどんなしるしを「見せるつもりか」と詰め寄りましたが(ヨハ2:18)、定められた時にキリストを「現してくださる」のは神です(1テモ6:15)。
 次にA「明らかにする・証明する」ことを表します。ヤコブは自分は行いによって信仰を「見せましょう」と述べ(ヤコ2:18)、知恵にふさわしい柔和な行いを「示しなさい」と諭します(ヤコ3:13)。
 今週の福音では「打ち明ける」と訳されています。イエスは初めて受難と復活を予告しましたが、この予告とともに、イエスの歩みはエルサレムでの十字架へと方向を転換させます。



 

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