A年年間第25主日
そのたくらみを捨てキリストが公然とあがめられるようにぶどう園に行く

第一朗読
イザヤ書 55章6―9節

6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
   呼び求めよ、近くにいますうちに。
7 神に逆らう者はその道を離れ
   悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
   主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
   わたしたちの神に立ち帰るならば
  豊かに赦してくださる。
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
   わたしの道はあなたたちの道と異なると
  主は言われる。
9 天が地を高く超えているように
   わたしの道は、あなたたちの道を
   わたしの思い
  あなたたちの思いを、高く超えている。

 

 

 

第一朗読 
イザヤ書 55章6―9節

   思いとたくらみ・マハシャーヴァー

 この語は動詞ハーシャヴ〈思う〉から派生した名詞ですから、まず@「思い」を意味します。主の「計らい」は代々に続くが(詩33:11)、その主は人間の「計らい」がいかにむなしいかを知っており(詩94:11)、人は常に悪いことばかりを「思い」計っているのを見ています(創6:5)。
 次にA「たくらみ・計画」をも表します。道を正すようにと忠告しても、「思い」どおりに歩きたいと言い張るので(エレ18:12)、災いが下るが、それは彼らの「たくらみ」が結んだ実なのです(エレ6:19)。確かに、人はその胸によこしまな「思い」を宿し(エレ4:14)、人の心には多くの「計らい」があるが、実現するのは主の御旨だけです(箴19:21)。しかも、神が我々のために立てた「計画」は、平和の「計画」であって、災いのそれではない(エレ29:11)。
 今週の朗読ではこの語は7節では「たくらみ」と訳され、8―9節では「思い」と訳されています。人の「思い」が良い「計画」になるのは、神の「思い」に合わせるときであり、そうでなければ、悪い「たくらみ」になります。
 

 

第二朗読
フィリピの信徒への手紙 1章20c―24、27a節

 20c生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
  21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
  22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
  23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
  24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
 27a ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。
第二朗読 
フィリピの信徒への手紙 1章20c―24、27a節

   板挟みの状態にある・シュネコー

 この動詞は、接頭辞シュン〈一緒に〉と動詞エコー〈持つ〉からなる合成動詞で、次のような意味を表します。
 @「(ひとまとめにすることによって)ふさぐ、閉じる」。ステファノの演説を聞いた人々は大声で叫びながら耳を「手でふさぎ」、襲いかかりました(使7:57)。
 A「押し迫る、取り囲む」。群衆はイエスを「取り巻い」て押し合い(ルカ8:45)、エルサレムを敵が四方から「攻め寄せる」日が来ます(ルカ19:43)。
 B「拘留する、捕らえておく」。イエスの「見張りをしていた」者たちは、彼を侮辱し、殴りました(ルカ22:63)。
 C「(悪い状態が)圧迫する、悩ます、苦しめる」。色々な病気や苦しみに「悩む者」をイエスは癒します(マタ4:24)。
 さらに、D受動態で、宣教に「専念する、かかりきりになる」(使18:5)、また、Eキリストの愛が「駆り立てる、強く促す」(2コリ5:14)と用いられます。
 パウロは生と死という二つの欲求に取り囲まれ、「板挟みの状態です」。しかし、彼は生きて宣教の働きに力を尽くします。キリストの愛がパウロたちを「駆り立てている」と知っているからです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 20章1―16節

 1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
  2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
  3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
  4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
  5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
  6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
  7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
  8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
  9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
  10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
  11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
  12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
  13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
  14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
  15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
  16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
今週の福音 
マタイによる福音書 20章1―16節

   ねたむ・オフサルモス ポネーロス

 今週の朗読の15節「わたしの気前のよさをねたむのか」を直訳すると「私が善いので、あなたのオフサルモス〈目〉はポネーロス〈悪い〉なのか」となります。ここに用いられた「オフサルモス ポネーロス」は、文字どおりに「目の働きが悪い」の意味でも使われます。例えば、マタ6:22―23「…目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、<濁っていれば>、全身が暗い…」の傍線部を直訳すれば、「あなたのオフサルモス〈目〉がポネーロス〈悪い〉なら」となります。ここでは目が機能しない状態を表します。
 しかし、目は心を映す鏡ですから、「目が善い」と言えば、「寛大で広い心」を表し(シラ35:10)、「目が悪い(オフサルモス ポネーロス)」と言えば、「ねじまがった、ねたみの心」を表します(マコ7:22)。
 今週の朗読では、文字どおりの意味で使われているかもしれません。働ける喜びを忘れ、いっそう多くの賃金に向かった目は、健全に働かず、最後の者にも配慮する方の「善さ」が見えなくなります。



 

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