A年年間第29主日
日の昇るところから日の沈むところまで力と、聖霊と、強い確信とによって神のものを神に返す

第一朗読
イザヤ書 45章1、4―6節

1 主が油を注がれた人キュロスについて
   主はこう言われる。
   わたしは彼の右の手を固く取り
   国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
   扉は彼の前に開かれ
   どの城門も閉ざされることはない。
4 わたしの僕ヤコブのために
   わたしの選んだイスラエルのために
   わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが
   あなたは知らなかった。
5 わたしが主、ほかにはいない。
   わたしをおいて神はない。
   わたしはあなたに力を与えたが
   あなたは知らなかった。
日の昇るところから日の沈むところまで
   人々は知るようになる
   わたしのほかは、むなしいものだ、と。
   わたしが主、ほかにはいない。
第一朗読 
イザヤ書 45章1、4―6節

   固く取る・ハーザク

 基本的には「強くなる・強化する」の意味ですが、ここではヒフィル形(使役形)での用例を見ます。
 @「強固にする」。見張りや自分の国を「強化する」(エレ51:12、王下15:19)。
 A「きびしくする」。戦いを「きびしくする=奮戦する」(サム下11:25)。
 B名詞ヤード〈手〉を伴って、「支える」。貧しい者や乏しい者を「助けようとしなかった」(エゼ16:49)。
 C「修復する」。城壁を(ネヘ3:4)。水漏れを「繕う者」(エゼ27:9)。
 D「うまく説得する」。彼を「引き止め」、食事を勧めた(王下4:8)。
E特に、「つかむ・握りしめる」。自分の衣を「つかんで」引き裂いた(サム下1:11)。足に「すがりついた」(王下4:27)。主が先祖の手を「取って」エジプトの地から導き出した(エレ31:32)。主を捨て、他の神々に「付き従った」(王上9:9)。槍を「手にしていた」(ネヘ4:15)。寄留者や滞在者を助けるようにその人を「助けなさい」(レビ25:35)。私は彼の右の手を「固く取る」(イザ45:1)。いつまでも怒りを「保たれることはない」(ミカ7:18)。
 

 

第二朗読
テサロニケの信徒への手紙 T 1章1―5b節

 1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています
  3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
  4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
  5b わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。
第二朗読 
テサロニケの信徒への手紙 T 1章1―5b節

   感謝する・エウカリステオー

 まず、この語は「ありがたく思っている、感謝すべきであると感じている」を意味します。新約聖書で感謝が人に向けられるのは次の一例だけです。命がけでパウロの命を守ったプリスカとアキラに、パウロだけでなく異邦人のすべての教会が「感謝しています」(ロマ16:4)。
 次に、「感謝する、感謝をささげる、礼を述べる」を意味し、「祈る」の意味に取ることのできる用例もあります。感謝が向けられるのは神であり、奇跡によって神の力を現したイエスです。重い皮膚病が清められ、いやされたのを知ったサマリア人は、イエスの足もとにひれ伏して「感謝しました」(ルカ17:16)。イエスは神へと「感謝の祈りを唱えて」パンを裂き(マタ15:36並行、26:27並行)、パウロはだれよりも多くの異言を語れることを(1コリ14:18)、また各地のキリスト者のことを(ロマ1:8、1コリ1:4)、神に「感謝します」。
 キリスト者はいつも、あらゆることについて、主イエス・キリストの名により、父である神に「感謝します」(エフェ5:20)。キリストが神の恵みを現してくれたからです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 22章15―21節

 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
  16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
  17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
  18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
  19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
  20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
  21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
今週の福音 
マタイによる福音書 22章15―21節

   先生・ディダスカロス

 この語は「教師・先生」を表し、ユダヤ教の教師(ラビ)や律法学者(ヨハ1:38、ルカ2:46)、洗者ヨハネ(ルカ3:12)、ニコデモ(ヨハ3:10)、さらにキリスト教会の職務としての「教師」(1コリ12:28)、偽教師(2テモ4:3)にも使いますが、多くはイエスを指します。
 イエスを「先生」と呼ぶのは弟子たちであり(マコ4:38)、マルタやマリアであり(ヨハ11:28、20:16)、さらにイエスに教えを請う者や癒しを求める者たちです(マコ10:17、5:35)。また、イエスがメシアであることを表す称号に近づいた用法もあります(ヨハ13:13)。
 しかし今週の福音にも見られるように、イエスの行動をとがめたり、イエスを試そうとしたり、言葉尻をとらえて陥れようとする人々もイエスを「先生」と呼びます。マタイではこの用法が多く、徴税人や罪人と食事をするイエスを見たファリサイ派の人(マタ9:11)、神殿税を集める人(マタ17:24)、イエスにしるしを求める律法学者が「先生」と呼びかけています(マタ12:38)。



 

今週の朗読のキーワードに戻る