B年待降節第3主日
(神の霊がわたしをとらえ、全く聖なる者とした、光について証しをするために)
第一朗読 イザヤ61章1―2a・10―11節 1 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。 2 主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め(るために)。 10 わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。 主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。 花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。 11 大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。 |
第一朗読 イザヤ61章1―2a・10―11節 霊・息吹 このヘブライ語(ルーアッハ)はもともとは「空気の移動」を表し、「風」や「息吹」の意味でまず使われます。神は土の塵で人を形づくり、その鼻に「息」を吹き入れることによって、人を生きる者にしました(創2:7)。ですから、神が「息吹」を取り上げれば彼らは息絶え、神がご自分の「息吹」を送れば、新たにされます(詩104:29―30)。 夕方の涼しい「風」のように(創3:8)、自然に吹く風もこの語で表しますが、洪水を引かせた「風」(創八1)や葦の海を分けた「風」(出14:21)や荒れ野にうずらを運んだ「風」(民11:31)のように、風といっても、特に神の意志を運ぶ「風」を表します。 このように神から来るルーアッハは人を新たにし、自然を変える力ですから、多くの用例では人や自然を変える力という側面にスポットが当てられています。今週の朗読でも、第3イザヤに神のルーアッハが降るとき、彼は造り変えられ、神からの使命にふさわしい者にされます。 日本語の「霊」とは違い、ルーアッハが「霊的存在」(王上22:21)を表す用例はわずかです。ルーアッハはむしろ「気」に近い概念かも知れません。 |
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第二朗読 テサロニケの信徒への手紙1 5章16―24節 16いつも喜んでいなさい。 17絶えず祈りなさい。 18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19霊≠フ火を消してはいけません。 20預言を軽んじてはいけません。 21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。 |
第二朗読 テサロニケの信徒への手紙1 5章16―24節 思い・セレーマ このギリシア語は動詞セロー〈望む〉から派生した名詞で「望み・思い」を表します。パウロがこの語を用いるとき、神に使い、しかもキリストを通してすべての人を救おうとする神の思いを表すことが多いと言えます。 ロマ2:17以下でパウロは律法学者を厳しく批判しています。彼らは律法を通して神の意志を知ることができ、目の不自由な人の導き手になっていると自負しているけれども、彼らの教えと行動とが食い違っていることに端的に示されているように、彼らは神の意志を理解しているとは言えない、とパウロは考えます。むしろ、キリストと共に新しい時代が始まっているのであって、神の霊に身を開き、心を新たにしていただくとき、神の御心(セレーマ)を知ることができるようにされ、絶えずそれを知ろうと努力することになる、と教えます。 従って、今週の朗読における「神のセレーマ」も、人間に対する期待という側面よりも、時宜に適った助けを与えようとする決意の意味だと思われます。神の霊の働きを妨げずに、神のセレーマに心を開くとき、「喜びと祈りと感謝」がおのずと可能になります。 |
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今週の福音 ヨハネによる福音書1章6―8・19―28節 6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 |
今週の福音 ヨハネによる福音書1章6―8・19―28節 証しする・マルテュレオー この動詞は「事実や出来事を確証し、証しする」の意味です。新約聖書で76回使われますが、その過半数はヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)での用例です。 証しする内容・対象がイエス・キリストであるような用例がほとんどですが、その場合、イエスの生涯に起こった出来事を単純に「証しする」だけではなく、イエスは誰なのか、その本質はどこにあるのかを「証しする」ことを含んでいます。 このような証しを行うものは、洗礼者ヨハネであり(1:7)、神であり(5:32)、イエスの業であり(5:36)、聖書であり(5:39)、イエス自身であり(8:13)、聖霊であり(15:26)、イエスの弟子です(15:27)。 このように証しはキリストの栄光を明らかにすることですから、出来事の直接の目撃者でなくても、証しすることができます。そのような証しはイエスが誰なのかを「告白する」ことと同じになります。キリスト者は神の業を証しし、告白する者なのです。 こうして、この言葉は命をかけた「証し(=告白)」、つまり「殉教」をも表す言葉となりました。 |