B年年間第3主日
(悪の道を離れ、泣かない人のように、イエスの後について行った)
第一朗読 ヨナ書 3章1―5・10節 1主の言葉が再びヨナに臨んだ。 2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」 3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。 4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」 5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。 10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。 |
第一朗読 思い直す・ナーハム この語の語源は「深く息をつく」ことを表します。人が深く息をつくのは、悲しんでいたり、同情したりしている時です。ですから、ピエル形(語根の意味を強めるときの語形)で使われると、「同情し、(激励のために)慰める」の意味になります(イザ40:1)。 また、今週の朗読のように、ニファル形(語根の意味を再帰的にしたり、受動的に変える語形)になると、「思い直す・悔やむ」の意味になります。人間が主語となる用例は比較的少なく、神を主語とすることが多くなります。例えば、創6:6では、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見た神は、人を造ったことを「後悔し」、心を痛めました。 しかし、神は罪を犯すことがありませんから、後悔といっても、人間のように罪業を悔やむのではなく、「人間をふびんに思い、人間に対する態度を最終目標に合わせて調整する」といった意味になります。ですから、創6:6でも、人を造ったことを「後悔した」と述べたあとに、「心を痛められた」と加えています。 神が深く息をついて行動に立ち上がるとき、罪の現実に苦しむ私たちがまことの慰めに招き入れられます。 |
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第二朗読 コリントの信徒への手紙一 7章29―31節 29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、 30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、 31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。 |
第二朗読
過ぎ去る・パラゴー |
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今週の福音 マルコによる福音書 1章14―20節 14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18二人はすぐに網を捨てて従った。 19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 |
今週の福音 捨てる・アフィーエーミ この語は実に広い意味領域を持っています。@「解き放つ・離れる」の意味で使われます。イエスがペトロの姑の手をとって起こすと、熱が彼女から「去り」(マコ1:31)、イエスは大声で叫び、息を「引き取りました」(マタ27:50)。 次にA「後に残す」の意味にもなります。九十九匹の羊を山に「残して」、迷い出た一匹を探し(マタ18:12)、イエスは弟子たちを孤児として「後に残す」ことはしないと約束します(ヨハ14:18)。 続いてB「なすがままに任せる・邪魔をしない」ことをも表します。イエスは子供たちが来ようとするのを「妨げてはならない」と戒めます(マタ19:14)。 さらにC「認める・許す」を表します。イエスは悪霊がものを言うのを「お許しになりませんでした」(マコ1:34)。 最後に七十人訳の用法の影響で、D「罪を赦す」の意味でも使われました。イエスは地上で罪を「赦す」権能を持っています(マコ2:10)。 今週の福音では二度使われていますが、このような語義から考え、網や父を捨てる人間の努力よりも、それを後に残せるほどにイエスに引き寄せられていることを表していると思われます。 |