B年年間第5主日
兵役にあるような者がすべての人の奴隷となり一同をもてなした

第一朗読
ヨブ記 7章1―4・6―7節

1 この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの
   傭兵のように日々を送らなければならない。
2 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
   傭兵のように報酬を待ち望む。
3 そうだ
  わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
   労苦の夜々が定められた報酬。
4 横たわればいつ起き上がれるのかと思い
   夜の長さに倦み
   いらだって夜明けを待つ。
6 わたしの一生は機の梭よりも速く
   望みもないままに過ぎ去る。
7 忘れないでください
   わたしの命は風にすぎないことを。
   わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。
第一朗読 

  労苦・アーマール

 労働は喜びをもたらすこともありますが、逃げ出したくなるような辛いものに変わることもあります。この語アーマールは、仕事のもつ暗い側面を表す言葉だと言えます。ですから、この語の多くの用例では、「災い」とか「苦悩」とか「悩み」と一緒に使われています。
 詩編90の作者も、ヨブが今週の朗読で主張しているように、はかなく短い人生なのに、獲得するものは「労苦」でしかない、と歌います(詩90:10)。生きる意味が見えなくなったとき、労働は重荷としか思えなくなります。
 しかし、詩編90の作者も「わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください」と祈って、詩編を閉じています。
 コヘレトも「太陽の下、人は労苦するが、すべての<労苦>も何になろう」(1:3)と訴えますが、同時に「人だれもが飲み食いし、その<労苦>によって満足するのは神の賜物だ」(3:13)とも告白します。
 労働が喜びとなるのは、絶対的な意味に触れているときです。それがなければ、「労苦」に終わります。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 9章16―19・22―23節

 16もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
18では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
 22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
第二朗読 

  不幸・ウーアイ

 まず、苦痛や悲嘆を表す感嘆詞として「悲しいかな・ああ哀れだ」を意味します。イエスは、数多くの奇跡を見ても悔い改めなかった町コラジンやベトサイダを「不幸だ」と言って叱りました(マタ11:21)。また、イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々を「あなたたち偽善者は<不幸だ>」と非難します(マタ23:13以下、ルカ11:42以下)。このほか、イエスが「不幸だ」と言って嘆いたのは、人の子を裏切る者であり(マコ14:21)、人をつまずかせる者であり(マタ18:7)、終わりの日に身重の女性であり(マタ24:19)、いま満腹していたり、笑ったりしている人です(ルカ6:25)。
 また、この語は今週の朗読のように名詞として用いられます。パウロが福音を告げ知らせているときはいつも、彼は神の熱意による必然によって動かされています。ですから、福音を告げ知らせないということは、いまのパウロにはありえないことですが、もし将来福音を告げ知らせないことがあるとしたら、パウロは「不幸」です。なぜなら、それはすべての人を救おうとする神の熱意に応えないことになるからです。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書 1章29―39節

 29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした
32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33町中の人が、戸口に集まった。
34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
今週の福音 

  もてなす・ディアーコネオー

 この語は文字通りには「食卓で給仕する」ことを表します。畑から帰った僕は主人のために「給仕する」が(ルカ17:8)、主人が目を覚ましていた僕たちに「給仕する」終わりの日が来ようとしています(ルカ12:37)。
次に食卓だけでなく、あらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味になります。悪魔からの試みを受けるイエスに「仕える」のは天使たちです(マコ1:13)。ガリラヤの婦人たちもイエスに「仕える」人となります(マタ27:55)。
 さらに、十字架を含むイエスの全活動を表す用例もあります。「仕えられる」ためではなく「仕える」ために来たイエスは、多くの人の身代金として自分の命をささげます(マコ10:45)。そこで、キリスト者の根本姿勢は「仕える者」ということになります(マコ9:35)。
 今週の福音では、イエスから癒しを受けたペトロの姑に使われています。彼女は「仕える」ことによって、癒しが実現したことを示し、その喜びを行動に表します。ここではまずは「食卓で給仕する」の意味でしょうが、救いに招かれたキリスト者の根本姿勢としての「仕える」も含意しているかも知れません。



 

今週の朗読のキーワードに戻る