B年年間第7主日
背きの罪をぬぐいキリストと固く結び付け「床を担いで歩け」と言う

第一朗読
イザヤ書43章18―19・21―22・24b―25節

18初めからのことを思い出すな。
    昔のことを思いめぐらすな。
19見よ、新しいことをわたしは行う。
    今や、それは芽生えている。
    あなたたちはそれを悟らないのか。
    わたしは荒れ野に道を敷き
    砂漠に大河を流れさせる。
21わたしはこの民をわたしのために造った。
    彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
22しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず
    イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。
24あなたの罪のためにわたしを苦しめ
    あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。
25わたし、このわたしは、わたし自身のために
    あなたの背きの罪をぬぐい
    あなたの罪を思い出さないことにする。
第一朗読 

  ぬぐう・マーハー

 この語は基本的には「拭い取る・拭い去る」を意味します。地上に悪が満ちたのを御覧になった神は人を造ったことを後悔し、地上から「ぬぐい去ろう」と考え(創6:7)、ノアを除いて、地の面の生き物をすべて「ぬぐい去りました」(創7:23)。
 しかし、この語は罪の赦しと関係しています。金の子牛を作って神を怒らせた民のために、モーセはとりなし、彼らの罪を赦さないなら、「どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から<消し去ってください>」と願います(出32:32、申9:14を参照)。また、詩編作者は「深い御憐れみを持って、背きの罪を<ぬぐってください>」と祈ります(詩51:3)。
 古代の羊皮紙における間違いやしみの修正は、墨を洗ったり、ぬぐったりすることによって行われましたが、このような体験にもとづき、罪を「ぬぐう」という表現が使われたと思われます。
 この語は第二イザヤでは二度使われており、いずれも罪の消去を表しています。今週の朗読では、罪をぬぐう神の決意が強調されていますが、44:22では、雲や霧が一掃されるように、罪が完全に「吹き払われる」と述べられます。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙二 1章18―22節

18神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。
21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊≠与えてくださいました。
第二朗読 

  油を注ぐ・クリーオー

 この動詞は旧約聖書では、転義して、王の即位の儀式の一つとして行われる「油注ぎ」を表すのに用いられます。ダビデはサムエルによって油を注がれ、王となるべき者と神から認められた者であることが示されました。その日以来、ダビデには主の霊が激しく降るようになります(サム上16:13)。
 新約聖書では今週の朗読を除いて、他の箇所ではキリストにこの動詞が用いられています(ルカ4:18、使4:27、10:38、ヘブ1:9)。ルカ4:18では、イエスに「油が注がれた」ことは、主の霊が与えられたことと関連づけられています。イエスは神の霊を与えられた者として「キリスト(油塗られた者)」です。
 今週の朗読では、キリストではなく、キリスト者にこの動詞が用いられています。「油を注ぐ」はここでも霊を注ぐことと関連づけて理解されます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付けた神が、「油を注ぎ」ました。キリストは油を注がれ、貧しい人に福音を告げ知らせる使命を与えられました。そのキリストに従うためには、神が「油を注ぐ」ことが不可欠なのです。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書 2章1―12節

1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3四人の男が中風の人を運んで来た。
4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
今週の福音 

  考えを抱く・ディアロギゾマイ

 この語は二つの意味で使われます。まず@「(自分の中で)つぶさに考察する」を意味します。天使ガブリエルから挨拶を受けたマリアは何のことかと「考え込み」(ルカ1:29)、メシアを待ち望んでいた民衆は洗礼者ヨハネがメシアではないかと心の中で「考えて」いました(ルカ3:15)。
 次にA「(自分の外の人と)論じ合う」ことを表します。ぶどう園の主人は収穫を集めるために跡取り息子を送りましたが、農夫たちは殺してしまおうと「論じ合い」ました(ルカ20:14)。ファリサイ派のパン種に気をつけなさいとイエスが注意したとき、弟子たちは自分たちがパンを持っていないからだろうかと「論じ合って」いました(マコ8:16)。
今週の福音では、この語は三度使われています。イエスが罪の赦しに言及したとき、律法学者は「あれこれ考え」ましたが(6節)、イエスは彼らが心の中で「考えている」ことを霊の力で悟って、なぜそんな「考えを抱くのか」と問いかけました。
律法学者はごくまじめに考察しますが、信仰を欠いているので、お門違いの考えに陥ってしまいます。



 

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