B年年間第9主日
男女の奴隷もあなたと同じように休みイエスの命が現れ安息日は、人のために定められた

第一朗読
申命記5章12―15節

 12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
第一朗読 

  休む・ヌーアハ

 この語はカル形(語根の意味に最も近い意味を表す動詞形)では、まず「何かの上にとまる・留まる」ことを意味します。とまるのは鳥であり(サム下21:10)、箱舟であり(創8:4)、主の霊であり(民11:25)、主の手であり(イザ25:10)、知恵などです(箴14:33)。
 そこからさらに「静かにしている・休む」の意味が生じました。出エジプト記版の十戒における安息日規定では、天地を創造した神が七日目に「休まれた」ことが安息日の根拠とされています(出20:11)。しかし、今週の朗読箇所である申命記版の十戒では、安息日は男女の奴隷が主人と同じように「休む」ことのできる日だとされています(申5:14)。また、出23:12での安息日規定では、牛やろばが「休み」、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するための日だとされています。
 安息日とは、七日目に「休まれた」ほどに全力をあげて天地を創造した神を思い起こし、その神が奴隷の家エジプトから開放したことに思いを向けて、男女の奴隷が「休み」、さらに牛やろばまでも「休む」ようにと配慮する日です。七日目に仕事を休んで神を思い起こすのは、残りの六日間を真の仕事日とするためです。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙二 4章6―11節

 6「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
 7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
第二朗読

 並はずれた偉大さ・ヒュペルボレー

 この語は、動詞ヒュペルバッロー〈越えて投げる〉からの派生語で、「過剰・超過」を意味し、「並はずれた資質や性質」を表します。「ヒュペル」という接頭辞は「越えて・まさって」を意味しますが、パウロはこの接頭辞のつく語をよく用います。新約聖書ではこの語はパウロの手紙にだけ現れます。またパウロは、8回のうち6回、この語を前置詞句の中に用いています。
 罪は掟を通して「限りなく」邪悪なものであることが示されたので(ロマ7:13)、パウロは「最高の」道を教えます(1コリ12:31)。パウロはかつて「徹底的に」神の教会を迫害しましたが(ガラ1:13)、キリストの福音を伝える者として「ひどく」圧迫されました(2コリ1:8)。しかし、一時の軽い艱難は「比べものにならないほど」重みのある永遠の栄光をもたらします(2コリ4:17)。
 パウロは「あまりにもすばらしい」啓示を(2コリ12:7)、「並はずれて偉大な」力を与えられたので、弱さを誇ることができます。「わたしは弱いときにこそ強い」と言うことができるのは、神の圧倒的な力を受けたからです。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書2章23節―3章6節

 23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
28だから、人の子は安息日の主でもある。」
 1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
今週の福音 

  萎えた・クセーライノー

 この語は二つの意味で使われます。まず@「枯れる」を意味します。石地に落ちた種は日が昇ると「枯れ」(マコ4:6)、イエスに呪われたいちじくの木は「枯れ」(マタ21:19)、ユーフラテスの川の流れも「かれ」(黙16:12)、十二年間も止まらなかった出血が「止まって」いやされた女性もいます(マコ5:29)。
 次に転義してA「体をこわばらせる」ことを表します。汚れた霊に取り付かれた子供は歯ぎしりして体を「こわばらせ」ますが、イエスに癒されます(マコ9:18)。今週の福音では、片手の「萎えた」人が癒されます(マコ3:1)。
 安息日には仕事をしないことによって、天地創造の神を想起し(出20:8-11)、牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復できる(出23:12)ようにと、出エジプトを思い起こす(申5:12-15)ことが求められています。聖書では、創造と歴史とは一つです。創造の神は被造物の運命に無関心ではないからです。
 神は草木や川の流れを枯れさせることもできるし、なえたりこわばった体をも癒すことができます。確かに安息日は人間のために定められました。



 

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