B年受難の主日
顔を隠さずに、嘲りと唾を受け十字架の死に至るまで従順で大声を出して息を引き取られた

第一朗読
イザヤ書50章 4―7節

4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
   疲れた人を励ますように
   言葉を呼び覚ましてくださる。
   朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
   弟子として聞き従うようにしてくださる。
5 主なる神はわたしの耳を開かれた。
   わたしは逆らわず、退かなかった。
6 打とうとする者には背中をまかせ
   ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
   顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7 主なる神が助けてくださるから
   わたしはそれを嘲りとは思わない。
   わたしは顔を硬い石のようにする。
   わたしは知っている
   わたしが辱められることはない、と。
第一朗読 
イザヤ書50章4―7節

   疲れた人・ヤーエーフ

この語は動詞形で9回、形容詞形で4回、合計13回使われ、基本的には「体力を消耗し、疲れ果てた状態」を表します。荒れ野で「疲れた者」の飲料としてぶどう酒が用意されました(サム下16:2)。また「疲れきった」兵士にはパンが一番です(士8:15)。また、偶像に頼る者が「疲れ果てる」のは、偶像には救う力がないからです(ハバ2:13)。
また、この語を最も多く使うのはイザ40章です。主なる神は倦むことなく、「疲れる」ことなく、その英知は極めがたい方ですから(40:28)、「疲れた者」に力を与えることができます(40:29)。強靭な体力を持つ若者も「疲れ」、勇士もつまずき倒れることがありますが(40:30)、主に望みをおく人は新たな力を得、走っても弱ることなく、歩いても「疲れる」ことがありません(40:31)。
今週の朗読では、主の僕が励ますべき人を指して、「疲れた者」と呼んでいます。捕囚地で希望もないまま、強制労働につかされているのですから、体力が弱り「疲れる」のも当然です。しかし、それだけでなく、主なる神に見切りをつけ、離れようとしている人を指しているのかも知れません。いずれにしても、主の僕の使命は彼らを励ますことです。
 

 

第二朗読
フィリピの信徒への手紙 2章6―11節

 6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
第二朗読 
フィリピの信徒への手紙 2章6―11節

   無にする・ケノオー

 この語は「空にする・内容を失わせる」を意味し、新約聖書では5回、パウロの手紙に用いられています。
 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや「無意味」であるから(ロマ4:14)、キリストの十字架が「むなしいものになって」しまわぬように、言葉の知恵に頼ることをせずにパウロは福音を告げ知らせます(1コリ1:17)。彼は神からゆだねられたこの務めを果たすために、福音によって生活の資を得る権利を何一つ利用しませんでした。この誇りを「無意味なものにして」はならない、と彼は言葉を強め(1コリ9:15)、コリントの人々に抱いている誇りが「無意味なものになら」ないように、兄弟を派遣します(2コリ9:3)。
 今週の朗読では、キリストの自己放棄の完全さを強調するためにこの語が用いられています。キリストは自分の持っているものすべてを手放し、自分を「空にしました」。すべての人を救いの喜びに導くためです。空になったキリストに神は主という名を与えて満たしました。すべての人が神をたたえ、喜びに満たされるためです。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 15章1―39節

 33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
今週の福音 
マルコによる福音書 15章1―39節

   そばに立つ・パリステーミ

 他動詞として使われ「かたわらに置く」を意味し、文脈に応じて異なる意味合いを持ちます。兵士はパウロを護送するために馬を「用意し」(使23:24)、彼を総督に「引き渡した」(使23:33)。神は信じる者を聖なる者に「する」(コロ1:22)。キリスト者はその体を生きた供え物として「献げる」(ロマ12:1)。
 自動詞として使われ「かたわらに立つ」ことを意味し、文脈に応じて豊富な意味合いを表します。やもめたちは「そばに寄って来た」(使9:39)。地上の王たちは敵として「立ち上がる」(使4:26)。助けを必要とするものを「助ける」(ロマ16:2)。大祭司の「そばにいた」下役がイエスを平手で打った(ヨハ18:22)。
このように「かたわらに立つ」といっても、その目的はさまざまです。敵として立つことも、助け手として立つこともあります。今週の福音では二度使われ、イエスの十字架の「かたわらに立つ」者がとる対照的な姿を浮き彫りにしています。ひとつのグループは「わが神、わが神」と叫ぶイエスを誤解し、からかいますが(35節「そばに居合わせた人々」)、百人隊長は息を引き取るイエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白します。



 

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