B年復活節第4主日
わたしたちが救われるべき名はわたしたちが神の子と呼ばれるために命を捨てる

第一朗読
使徒言行録4章8―12節

 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストのによるものです。
11この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。
12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
第一朗読 
使徒言行録4章8―12節

   名・オノマ

現代にもその名残が見られますが、古代の人々は「名はその担い手の何らかの本質、あるいは特質を表す」と信じていました。だから、相手の名を知ることは、相手の人格を支配する早道でしたし(マコ1:24)、誰かに新たな名を与えることは、その人物に新たな本質を付与することに通じると見られていました(マコ3:16―17)。
神の名を知った者は、神が啓示した限りでのことではあっても、神を知ったことになります。したがって、神の名を呼ぶとは、すでに自分に顔を向けている神に身を向けることを意味し、神を神として認め、神のものとなろうとする願いの表明です(ロマ10:13)。
イエスは神を完全に啓示した方ですから、新約聖書では「神の名」と並んで、「イエスの名」が重視されることになります。パウロは回心以前、「イエスの名」に大いに反対していましたが(使26:9)、後には「イエスの名」を運ぶものとなります(使9:15)。この名が罪のゆるしを与えるからです(使10:43)。
今週の朗読では、「イエスの名」が癒しと救いをもたらす唯一のものだと主張します。足の不自由な男の癒しは、このことを証しする出来事なのです。
 

 

第二朗読
ヨハネの手紙 T 3章1―2節

 1御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
第二朗読 
ヨハネの手紙 T 3章1―2節

   示す・ファネロオー

 この動詞は新約聖書では49回用いられ、特にヨハネ文書に多くの用例が見られます。
 この語はまず、「現す・明らかにする」を意味します。多くの場合、明らかにされるのは、イエスの栄光(ヨハ2:11)、御言葉(テト1:3)、神の業(ヨハ9:3)、秘められた計画(コロ1:26)、聖所への道(ヘブ9:8)、神の愛(1ヨハ4:9)、イエスの命(2コリ4:10)であり、神の真理が明らかにされます。次に、復活したイエスが「現れる」を意味します。イエスはテイベリアス湖畔で弟子に現れ(ヨハ21:1・14)、食事をしている十一人に現れました(マコ16:14)。また、キリストの再臨を表すのに用いられます(コロ3:4、1ペト5:4、1ヨハ2:28)。
 今週の朗読では2節に二回用いられています。キリスト者が将来どのようになるかは、まだ「示されて」いません。それは、再臨のキリストが「現れる」時に示されます。その時には、御子と似た者になるという確信をキリスト者は抱いています。なぜなら、キリストによって今既に神の子であるという栄誉を受けているからです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 10章11―18節

 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。---狼は羊を奪い、また追い散らす。---
13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
今週の福音 
ヨハネによる福音書 10章11―18節

心にかけている・メレイ

 この語は「(ある事が誰かの)関心事となっている」の意味です。人が不安や面倒に直面しているとき、自分に関心を示してくれる人を求めるのは当然です。だから、突風のために水浸しになった船の中でおびえる弟子たちは、自分たちがおぼれても「かまわないのですか」と眠っているイエスに問い(マコ4:38)、姉妹のマリアが自分だけにもてなしをさせていることに苛立つマルタは、それをなんとも「お思いになりませんか」とイエスに問いかけます(ルカ10:40)。
しかし、パウロは、召されたときに奴隷であった人に、そのことを「気にしてはいけません」と説き、自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさいと教えます(1コリ7:21)。また、ペトロも思い煩いは何もかも神にお任せしなさいと勧めますが、それは神が「心にかけてくださる」と知っているからです(1ペト5:7)。
今週の朗読では、狼が来ると、羊を置き去りにする雇い人に遣われています。彼がそうするのは、羊のことを「心にかけていない」からです。しかし、良い羊飼いは羊を心にかけているので、自分の命を捨てる(=置く)ことを厭いません。



 

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