B年年間第13主日
不滅な者として慈善の業にも豊かな者となりただ信じなさい

第一朗読
知恵の書 1章13―15節、2章23―24節

13 神が死を造られたわけではなく、
      命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
14 生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
      世にある造られた物は価値がある。
      滅びをもたらす毒はその中になく、
      陰府がこの世を支配することもない。
15 義は不滅である。

23 神は人間を不滅な者として創造し、
      御自分の本性の似姿として造られた。
24 悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
      悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
第一朗読 
知恵の書 1章13―15節、2章23―24節

   似姿・エイコーン

七十人訳でのこの語の用例は、ほとんどヘブライ語ツェレム〈像・似姿〉の訳語として用いられます。今週の朗読の知恵の書は最初からギリシア語で書かれたと思われ、従って、ヘブライ語との対応関係を確認することはできませんが、おそらく他の用例と同様に、ツェレムの意味合いが響いていると思われます。
七十人訳ではおよそ60回使われていますが、そのうち半数はダニエル書での用例であり、ほとんどは「偶像」の意味です。ダニエル書に続いて多いのは、知恵の書であり、8回の用例があります。息子の予期せぬ死に苦しむ父親は息子の「肖像」を造り、家の者に儀式を義務づけたり(14:15)、尊敬すべき王が遠くに住んでいるために、生き写しの「肖像」を作って崇拝したりすることが(14:17)、偶像礼拝への端緒となり、愚かな者はこの魂の欠けた、命のない「肖像」にあこがれます(15:5)。
しかし、知恵は神の善の「姿」であり(7:26)、その知恵に身を開いている者は、自分が神の「似姿」であることに気づくので(2:23)、木片を使って人の「姿」に作り上げたにすぎない、しかも人の助けを必要とする「像」(13:13・16)には興味を示すことがありません。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙 U 8章7、9、13―15節

 7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい
 9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
 13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
15「多く集めた者も、余ることはなく、
     わずかしか集めなかった者も、
  不足することはなかった」
     と書いてあるとおりです。
第二朗読 
コリントの信徒への手紙 U 8章7、9、13―15節

   豊かである・ペリッセウオー

 この動詞は新約聖書で39回用いられ、24回はパウロ書簡での用例です。
 まず、自動詞として用いられ、物が「豊富にある、あふれている」を意味します。五千人にパンを与え、「残った」パン屑は十二籠あり(マタ14:20並行)、恵みの賜物は「豊かに注がれ」ます(ロマ5:15)。人物に用いられると、「有り余るほど持っている、傑出している」の意味になります。キリスト者は霊的な賜物を「ますます豊かに受ける」ように求め(1コリ14:12)、主の業に常に「励む」べきです(1コリ15:58)。
 他動詞としては「富ませる、とても豊かにする」を意味します。神は恵みを「満ちあふれさせ」(2コリ9:8)、主がキリスト者を愛で「満ちあふれさせる」ことをパウロは祈ります(1テサ3:12)。
 今週の朗読では、7節に二回用いられて「豊かである、豊かな者となる」と訳されています。終わりの時に神が恵みの賜物を溢れさせたのですから、その溢れ出る力に従うなら、私たちが受けた賜物は、今それを欠いている者へと向かうはずです。すべての欠けを満たすために、神は恵みを溢れさせているからです。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 5章21―24、35b―43節

 21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
 35b 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
今週の福音 
マルコによる福音書 5章21―24、35b―43節

   願う・パラカレオー

この語は接頭辞パラ〈わきに〉と動詞カレオー〈呼ぶ〉による合成動詞ですから、「わきに呼ぶ・わきから声をかける」の意味ですが、文脈に応じて次のような意味で使われます。
まず今週の福音のように、@「願う」を意味します。この用法では、イエスに近づく人々に使われる用例がほとんどですが(ルカ7:4など)、一度だけ、天の父に天使を派遣するようにと「願う」イエスに使われています(マタ26:53)。
次にA「勧める・励ます」の意味でも使われます。パウロはテモテをテサロニケに送って信徒を「励ます」(1テサ3:2)とともに、手紙の結びでは信徒に「勧める」忠告を書いています(1テサ4:1)。勧めが励ましとなり、励ましが勧めをともなうのは、それが神やキリストを通して行われる勧めであり、励ましだからです(ロマ12:1)。
最後にB「慰める」の意味にもなります。慰めるとは、「わきに呼び、わきから親しく声をかける」ことだからです(1コリ1:3以下)。
会堂長がしきりに願ったとき、心の慰め手に出会いました。



 

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