B年年間第14主日
霊がわたしの中に入りわたしは弱いときに強いだが、人々はイエスにつまずいた

第一朗読
エゼキエル書 2章2―5節

 2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
3 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
第一朗読 
エゼキエル書 2章2―5節

   固い・カーシェ

この形容詞は「固い・困難な・重大な」を意味します。まず解決の「難しい」事件を表します(出18:26)。さらに「激しい」戦いにも(サム下2:17)、「激しい」風にも使われます(イザ27:8)。
また名詞アヴォーダー〈労働〉を修飾し、「過酷な労働」の意味にもなります。エジプトで民は「過酷な」労働に苦しみ(出1:14、6:9、申26:6)、バビロンでも「厳しい」労役を負わされました(イザ14:3)。また、名詞ダーヴァール〈言葉〉を修飾し、「厳しい口調」を表します。ヨセフは「厳しい口調で」兄弟たちに問いかけます(創42:7。またサム上20:10、王上12:13を参照)。
さらにこの言葉は名詞オーレフ〈うなじ〉などと共に使われ、荒れ野での「うなじの固いかたくなな民」を表します(出32:9、33:3・5、34:9、申9:6・13)。
エゼキエルでは二度使われ、2:4では名詞パーニーム〈顔〉と共に使われ「顔の固い=かたくなな」の意味で、3:7では名詞レーヴ〈心〉と共に使われ「心の固い=かたくなな」の意味で使われ、いずれも神の心に触れようとしない強情さを表します。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙 U
12章7b―10節

 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
第二朗読 
コリントの信徒への手紙 U
12章7b―10節

   十分に発揮する・テレオー

 この動詞は名詞テロス〈終点・目標〉の動詞形であり、「終わりに達する、完成する、果たす」を意味します。
 まず「済ませる、終了する」の意味で用いられます。イエスは十字架の上で、「成し遂げられた」と言って息を引き取り(ヨハ19:30)、神の秘められた計画は「成就し」(黙十7)、神の怒りは「極みに達し」ます(黙15:1)。
 次に「実行する、果たす、成し遂げる」を意味します。体に割礼を受けていなくても、律法の要求を「守り」(ロマ2:27)、隣人愛という最も尊い律法の要求を「果たす」べきです(ヤコ2:8)。
 さらに、神殿税や貢ぎ物を「納める」の意味でも用いられます(マタ17:24、ロマ13:6)。
 今週の朗読では、主の力は弱さの中で「完成する」の意味で用いられています。人間が弱く、力なく、自分を救うことができないから、神はイエスを遣わしました。イエスが負った十字架の死という弱さの極みに神の救いが完成したことをパウロが思い起こすように、神は彼に「とげ」を与えます。人間に欠けがあるから、神の力がそれを満たします。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 6章1―6節

 1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた
4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
今週の福音 
マルコによる福音書 6章1―6節

   つまずく・スカンダリゾー

 この動詞は名詞スカンダロン〈罠〉から派生した動詞形ですので、スカンダロンの二つの意味に応じて、次のように使われます。まず、スカンダロンの「罪への誘い」という意味に応じて、@能動形で「罪に落とす・不信仰へと転落させる」、受動形で「罪へと導かれる」の意味になります。罪へのつまずきとなるのは手や足や目ですから、それらが「つまずかせる」なら、切り捨てろ、とイエスは教えます(マタ5:29以下)。また、艱難や迫害も人を「つまずかせ」(マコ4:17)、今週の朗読が述べるように、人が常識に凝り固まっていると、イエス自身が「つまずきの石」に変わってします。
 次にスカンダロンの「怒りや嫌悪を引き起こすもの」という意味に応じて、A「怒らせる・いらだたせる」ことを表します。イエスの教えや行いは、ファリサイ派の人だけでなく(マタ15:12)、イエスの弟子たちも「怒らせてしまいます」(ヨハ6:61)。
イエスが意図的にそうするのではなく、イエスを常識で割り切ろうとする人々のかたくなさや思い込みが、つまずかせることになります。



 

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