B年年間第15主日
わたしを取りキリストによって神の子とし遣わすことにされた

第一朗読
アモス書7章12―15節

 12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。13 だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」14 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。15 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
第一朗読 
アモス書7章12―15節

   取る・ラーカハ

 この語は旧約聖書では千回近く使われています。英語のtakeと同様に広い意味領域を持っています。ここでは神学的に見て興味深い用例を二つあげます。
 まず「人が天に取られる」といった用例です。創世記5章にアダムの系図がありますが、ここに登場する人物の中で、エノクだけが「死んだ」とは言われずに、「エノクは神と共に歩み、神が<取られた>のでいなくなった」と書かれています(創5:24)。同じ表現が預言者エリヤにも使われています。エリヤは「嵐の中を天に上って行った」とありますが、これを「取り去られる」と言い表しています(王下2:10―11、他に詩73:24―26を参照)。
 注目すべき、もう一つの用法は「選ぶ・呼び出す」の意味で使われる箇所です。例えば、申4:34「…あえて一つの国民を他の国民の中から<選び出し>、御自身のものとされた神があったであろうか」の「選び出す」は動詞ラーカハです。
今週の朗読でもこの「選ぶ」の意味で使われています。アモスは「取る」という動詞を用いることによって、自分の意思とはまったく無関係に、神が介入したことを強調しています。
 

 

第二朗読
エフェソの信徒への手紙 1章3―14節

 3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。10こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
第二朗読 
エフェソの信徒への手紙 1章3―14節

   選ぶ・エクレゴマイ

 この動詞は「(自分のために)選ぶ、選出する」を意味しますが、多くの用例では、神やイエスによる選びを表すのに用いられています。
 まず、「(自分のために)選ぶ」という一般的な意味で用いられている用例は二つあります。イエスの足もとに座って、その話を聞き入っていたマリアは良い方を「選び」(ルカ10:42)、招待を受けた客は上席を「選び」ます(ルカ14:7)。
 神やイエスを主語とする用例は16例あります。イエスは十二人や使徒を「選び」(ルカ6:13:、ヨハ6:70、使1:2)、神は先祖を「選び」(使13:17)、世の無力な者を「選び」ました(1コリ1:27―28)。また、神やイエスに選ばれた弟子たちは、宣教の働きのために人を「選び」ます(使6:5、15:22・25)。
 今週の朗読では、神はキリストにおいて私たちを「選んだ」と述べられています。キリスト自身が神に「選ばれた者」であり(ルカ9:35)、そのキリストに従うことによって、私たちは神の選びを受けることができます。神に選ばれた者とは、キリストが示した神の恵みと栄光を信じて賛美する者のことです。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 6章7―13節

 7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
今週の福音 
マルコによる福音書 6章7―13節

   迎え入れる・デコマイ

この語は大きく三つの意味で使われます。まず@文字通りに「受け入れる」を意味します。シメオンは幼子イエスを腕に「抱き」(ルカ2:28)、殉教を迎えたステファノは自分の霊を「お受けください」とイエスに祈ります(使7:59)。また、宣教者を「迎える」ことをも表します。この場合、もちろん「宣教者のメッセージを受け入れる」ことをも含意しています(マタ10:40)。
次にA何かを「とる」ことを表します。それは証文であり(ルカ16:6)、杯(ルカ22:17)などです。
最後に、Bある人物を「耐え忍ぶ」(2コリ11:16)、何かを「理解して受け入れる」の意味になります。その場合、受け入れる事柄は、霊に由来することであり(1コリ2:14)、願いであり(2コリ8:17)、真理への愛であり(2テサ2:10)、神の国であり(マコ10:15)、恵みなどです(2コリ6:1)。
今週の朗読では、まずは@の意味で使われ、「十二人を迎え入れる」の意味ですが、Bの意味合いも含んでおり、彼らが運ぶメッセージを「理解して受け入れている」ことをも表していると思われます。



 

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