B年年間第17主日
食べきれずに残すすべてのものを通して働く方が欲しいだけ分け与えられた

第一朗読
列王記下 4章42―44節

 [ ギルガルの地が飢餓に見舞われていたとき、]
42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した
第一朗読 
列王記下 4章42―44節

   残す・ヤータル

この語は「分割されたものの一部分、しかも多くの場合、より少ない部分」に言及する言葉であり、「残る」とか「残される」の意味で使われます。
ルツはボアズの好意で炒り麦を食べて満腹し「残した」(ルツ2:14)というときや、幕屋建設の際に民が十分な材料を持ち寄ったので「残した」(出36:7)というときには、この語は満ち足りた状態を表します(今週の朗読でも)。
ヤコブが奔放に生きるルベンに対して「おまえには残らないだろう」(創49:4直訳)と宣言するときには、この語は他よりも卓越した状態を表し、「他をしのぐことがない」の意味になります。
また戦争を述べる文脈に使われると、「壊滅的な敗戦をくぐり抜けて生き延びる」の意味になります。ハツォルを攻めたヨシュアは全住民を撃ち、一人も「残さず」火で焼きました(ヨシュ11:11)。バアル礼拝と激しく戦ったエリヤはただ一人「残った」主の預言者です(王上18:22)。バビロンによるエルサレム破壊を生き延びる「残された」者は(エゼ6:8)、イスラエル再興のための希望になりえます。
 

 

第二朗読
エフェソの信徒への手紙 4章1―6節

 1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み
2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
第二朗読 
エフェソの信徒への手紙 4章1―6節

   歩む・ペリパテオー

 この動詞は、まず文字どおりの意味で「歩き回る」を意味します。律法学者は長い衣をまとって「歩き回る」のを好みますが(マコ12:38)、イエスはガリラヤを「巡り」(ヨハ7:1)、神殿の境内を「歩き」ます(マコ11:27)。中風の者に床を担いで「歩け」と命じたイエスは(マコ2:9)、ガリラヤ湖の上を「歩き」ました(マタ14:26)。
 次に、転義した意味に近づいて用いられます。イエスに従う者は暗闇の中を「歩か」ず、命の光を持ちます(ヨハ8:12)。
 転義して、人生の歩みを表して「生きる、振る舞う」を意味します。今週の朗読の用例はこれにあたります。神に呼び出されたキリスト者はその呼びかけにふさわしく「歩み」(エフェ4:1)、怠惰な「生活をして」はならず(2テサ3:6)、品位をもって「歩もうではありませんか」と呼びかけられます(ロマ13:13)。愚かな考えに従って「歩み」(エフェ4:17)、神の命から遠く離れていたエフェソの人々が、神に近づいて生きることができるのは、神がそのような歩みをなによりも望んで、彼らを呼んだからです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 6章1―15節

 1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
今週の福音 
ヨハネによる福音書 6章1―15節

   祭り・ヘオルテー

 まず@「過越祭、あるいは除酵祭」を表します。この祭りは遊牧民が次の牧草地に出発する際に、幕屋の出入り口に動物の血を塗って、保護を願うと同時に、結束を図るための祭りだったと思われますが、後に出エジプトの故事と結びつけられました。イエスの両親は「過越祭」には毎年エルサレムに上り(ルカ2:41)、総督ピラトは「祭り」の度ごとに囚人を釈放していました(マコ15:6)。
 次にA「仮庵祭」を表します。この祭りはもともとは秋のぶどうやオリーブの収穫を祝う祭りですが、捕囚以降は出エジプトと結びつけられ、荒れ野の時代のように仮庵に住む祭りとされました。ヨハネ7章の用例はいずれも「仮庵祭」を表します。
この語は新約聖書で26回使われますが、そのうち17回がヨハネ福音書での用例です。しかも、共観福音書でのイエスは公的な活動時期においては過越祭を一回体験するだけですが、ヨハネでは三回になります。ヨハネは確かに祭りを大事にします。



 

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