B年年間第23主日
見よ、あなたたちの神を世の貧しい人たちをあえて選び天を仰いで深く息をついた

第一朗読
イザヤ書 35章4―7a節

4 心おののく人々に言え。
   「雄々しくあれ、恐れるな。
   見よ、あなたたちの神を
   敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
   神は来て、あなたたちを救われる。」
5 そのとき、見えない人の目が開き
   聞こえない人の耳が開く。
6 そのとき
   歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
   口の利けなかった人が喜び歌う。
   荒れ野に水が湧きいで
   荒れ地に川が流れる。
7a 熱した砂地は湖となり
   乾いた地は水の湧くところとなる。
第一朗読 

   報い・ゲムール

 この語は動詞ガーマル〈分け与える〉から派生した名詞で、「ある行為がもたらすもの」を意味します。箴12:14に「人は手の働きに応じて報いられる」とありますが、これを直訳すれば、「人の手が<もたらすもの>が彼に戻ってくる」となります。このような用例から分かるように、この語の背景には「人はその行いに応じた報いを受ける」という信念があります。しかし、その報いの内容が望ましいものであるか、あるいは悪いものであるかは文脈によって決まるのであり、この語そのものは「行いにふさわしい報い」を表すのであって、どちらをも表すことができます。
 詩103:2「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の<御計らい>を何ひとつ忘れてはならない」では、「恵み深い報い」のことです。しかし、イザ66:6「(主の)敵に<報い>を返される主の声が聞こえる」では、「受けるべき罰」を表します。
 しかし、人の行いにふさわしい報いをもたらすのは神だと信じる者にとっては、この語は人間の計算とは必ずしも重なることのない神の義への信頼を表すことになります。
 

 

第二朗読
ヤコブの手紙 2章1―5節

 1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
 5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
第二朗読 

   差別をする・ディアクリーノー

 この動詞は能動態では「分ける、区別する、判断する、裁く」を意味し、中動態とアオリスト受動態では「言い争う、疑う、ためらう」の意味になります。
 イエスを試そうとしたファリサイ派とサドカイ派の人々は、空模様は「見分ける」ことができるのに、時代のしるしを見ることができません(マタ16:3)。霊はペトロに「ためらわ」ないで異邦人のもとへ行くようにと命じましたが(使10:20)、そのことで割礼を受けている者たちはペトロを「非難し」ました(使11:2)。パウロは正しく見分ける力を持って、主の体を「わきまえ」、自分を「わきまえる」ように求めます(1コリ11:29、31)。
 今週の朗読の4節「差別をする」は、アオリスト受動態で書かれていますから、直訳は「分けられた」であり、「言い争う、疑う」の意味に取ることができます。貧しい人と金持ちへの態度をめぐって、ヤコブの教会は分裂しています。心が分かれているから、疑いを起こし、人への態度も定まらなくなります。いささかも「疑わ」ずに、神に知恵を求めて願うようにヤコブは教えます(1:6)。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 7章31―37節

 31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
今週の福音 

   深く息をつく・ステナゾー

 この語は「ため息をつく・うめく」を意味します。ため息の原因は嘆きや不平にあるから、この語はまず「不平を言う・嘆く」ことを表します。ヤコブは互いに「不平を言わない」ようにと戒め(ヤコ5:9)、ヘブライ人の手紙も教会指導者を「嘆かせる」ことがないようにと忠告しています(ヘブ13:17)。
 しかし、パウロはキリスト者の本質的なあり方を指す言葉として用いています。ロマ8章で、将来表されるはずの栄光に比べれば、取るに足らない現在の苦しみを述べています。そこでは、「共にうめく(シュンステナゾー)」被造物と、言葉に表せない「うめき(ステナゾーの名詞形)」をもって執り成す(キリストの)霊との間に、神の子とされることを「うめきながら」待ち望んでいるキリスト者が登場します。このようなうめきは積極的な意味のあるうめきです。
今週の福音でのこの語は、精神集中をはかる奇跡施行者の動作かも知れませんが、「うめき」をもって執り成すイエスの霊の現れと見ることもできます。



 

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