B年年間第29主日
(正しい者とされ、時宜にかなった助けをいただき、すべての人の僕になる)
第一朗読 イザヤ書 53章10―11節 10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。 |
第一朗読 僕・エヴェド この語は動詞アーヴァド〈仕える〉から派生した名詞であり、「仕える者」を意味します。そこで文脈に応じて、主人に仕える「奴隷」(出12:44)、王に仕える「家臣」(王上9:27)、神に仕える「僕」(王下9:7)を意味します。 神に仕える「僕」とされるのは、アブラハムなど族長、モーセやヨシュア、ダビデやゼルバベルのような王、エリヤやイザヤのような預言者など個人のほかに、イスラエルの民も「僕」とされます。また相手を敬う心を表すために、自分をその人に対する「僕」と表現することもあります(王下8:13など)。 この語は第二イザヤでは「民」への神の呼びかけに多く使われますが、四つの「主の僕の歌」に登場する「僕」についてはさまざまな解釈があります。しかし、 @42:1-4 民 A49:1-6 第二イザヤ自身 B50:4-9 第二イザヤ自身 C52:13-53:12 理想の預言者 と見るのが良いと思われます。僕とはまずは民ですが、やがて民イスラエルを真の僕にする第二イザヤを表し、ついには理想の預言者を指すことになります。 |
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第二朗読 ヘブライ人への手紙 4章14―16節 14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 |
第二朗読 座・スロノス この語は「椅子」や「座席」を意味しますが、新約聖書では特に、人間の王や支配者の「座」、神の「玉座」を表すのに用いられます。神は権力ある者をその「座」から引き降ろし(ルカ1:52)、イエスに父ダビデの「王座」をくださいます(ルカ1:32)。イエスは十字架の死を耐え忍び、神の「玉座」の右に座り(ヘブ12:2)、神と小羊の「玉座」は都にあって、神の僕たちは神を礼拝します(黙22:3)。天は神の「玉座」ですから、天にかけて誓ってはならず(マタ5:34)、終わりの時には、キリストに属する者はキリストの「座」に着きます(黙3:21)。そのほか黙示録には、二十四人の長老の「座」(4:4)、獣が竜から受ける「王座」(13:2)、サタンの「王座」(2:13)が言及されています。 今週の朗読は、恵みの「座」に近づこうと、勧めています。ユダヤ教のラビたちはしばしば神の座には「裁きの座」と「恵みの座」の二つがあると考えていました。しかし、もろもろの天を通過した大祭司イエスが、人間の弱さを耐え忍んだことにより、王である神の本性が究極的には恵みであることが示されました。 |
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今週の福音 マルコによる福音書 10章35―45節 35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 |
今週の福音 座る・カシゾー この語はごく普通に「座る」の意味ですが、特別な意味合いを含んだ用法もあります。まず、ユダヤ教のラビ(教師)は座って教えましたが、イエスも山上の説教に見られるように、しばしば「座って」教えました(マタ5:1、マコ9:35、ルカ5:3)。ただし、これは一種の習慣で、特別な栄誉を伴うとは限りません。 しかし、高い地位の者がそのために用意された特別な座席に「つく・座る」場合には、権威を表すしるしになります。裁判官は裁判を始めるためにその席に「着きます」(ヨハ19:13)。また、神は御座に「座る方」ですが、イエスはその神の右の座に「着きました」(マコ16:19、ヘブ1:3)。これはメシア預言とされていた詩110:1に基づく表現であり、イエスによってそれが成就し、イエスこそメシアだと宣言したのと同じです。新しい世界になり、イエスが栄光の座に「座る」とき、弟子たちも十二の座に「座る」ことになりますが(マタ19:28)、イエスの右左に誰が座るかを決めるのは神です。 |