B年王キリスト主日
「人の子」のような者が雲に乗って来られ真理について証しをする

第一朗読
ダニエル書7章13―14節

13 夜の幻をなお見ていると、
     見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
     「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14 権威、威光、王権を受けた。
     諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
     彼の支配はとこしえに続き
     その統治は滅びることがない。
第一朗読 
ダニエル書7章13―14節

   人の子・バルエナーシュ

 旧約聖書での「人の子」は三つの意味で使われます。まずは、「神とは違った存在としての人間」に注目するときに、この語を使います。それは民23:19「神は人ではないから、偽ることはない。<人の子>ではないから、悔いることはない」に示されるとおりです。しかし、神はこの「人の子」を顧みる方です(詩8:5)。
 次に、エゼキエル書では、エゼ33:7「<人の子よ>、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした」とあるように、イスラエルのための見張りとされたエゼキエルに対する神の呼びかけとして用いられます。
 これらの用例では「人間」が意味されていますが、ダニエル書での用例は異なる意味合いをもっています。今週の朗読に見られるように、世界帝国による支配を終わらせるために「人の子」が神から権威を受けますが、ここでの「人の子」からは人間的な側面がほとんど消え去り、天上の存在とされています。
 新約聖書ではイエスの自称として使われますが、ダニエル書的な用法なのか、それとも「人間の卑賤さ」を担うことを表すのか問題とされています。
 

 

第二朗読
ヨハネの黙示録 1章5―8節

5 証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
7 見よ、その方がに乗って来られる。
   すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
   ことに、彼を突き刺した者どもは。
   地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
   然り、アーメン。
 8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
第二朗読 
ヨハネの黙示録 1章5―8節

   雲・ネフェレー

 まず、自然現象としての「」を表します。人は「雲」が西に出るのを見るとすぐに、にわか雨になると言い(ルカ12:54)、不信心な者たちは風に追われて雨を降らさぬ「雲」のようです(ユダ12)。
 また、1コリ10:1以下だけに見られる用例ですが、そこでは荒れ野の旅での「雲」がキリストによる洗礼の予型と見られており、神との人格的な出会いが強調されています。
 さらに、「雲」は神顕現を表します。「雲」は啓示をもたらす天使の衣服であり(黙10:1)、イエスの変容の際、「雲」の中からの声はイエスに従えと弟子に命じました(マタ17:5並行)。
 また、イエスは「雲」に覆われて天に上げられましたが(使1:9)、終わりの日に「雲」に乗って来る人の子であり(マコ14:62)、キリスト者も「雲」に包まれて引き上げられます(1テサ4:17)。
 今週の朗読の7節「雲に乗って」は、直訳では「雲と共に」となります。この雲が乗り物でないなら、神顕現のしるしと考えられます。そうであれば、終わりの日に神と共にキリストは現れます。救いが確かであることを示すためです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 18章33b―37節

 33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人のなのか」と言った。
34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
37 そこでピラトが、「それでは、やはりなのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしがだとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
今週の福音 
ヨハネによる福音書 18章33b―37節

   王・バシレウス

 この語はもちろんヘロデ王のように世俗世界の支配者としての「」をも表しますが、転義した意味で使われ、「至高の力をもつ存在」を指す用例も多く見られます。
 そのような用例としてはまず神に使われます。神は「偉大な王」であり(マタ5:35)、「諸国民の王」であり(黙15:3)、「王たちの王」(1テモ6:15)だとされます。またマタイ福音書が述べる天の国のたとえに登場する「王」も神を表します(マタ18:23など)。
 次にこの語はイエスに使われます。イエスは「ユダヤ人の王」として誕生し(マタ2:2)、「王」としてエルサレムに入城し(マタ21:5)、「王」として最後の審判を行います(マタ25:34)。イエスは旧約聖書が預言していたメシア王だからです。しかし、十字架に上って死ぬメシア像は人間の常識を超えていますから、「ユダヤ人の王」という罪状書きとともにイエスを十字架にかけてからかいました(マコ15:26)。イエスは常識とは異なる「王」だったのです。



 

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