C年待降節第2主日
(悲しみと不幸の衣を脱ぎ知る力と見抜く力とを身に着け神の救いを仰ぎ見る)

第一朗読
バルク書5章1―9節

1 エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ
   神から与えられる栄光で永遠に飾れ。
2 神から与えられる義の衣を身にまとい、
   頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。
3 神は天の下のすべての地に
   お前の輝きを示される。
4 お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、
   その名は永遠に残る。
5 エルサレムよ、立ち上がれ、
   高い山に立って東の方に目を向けよ。
   お前の子らは、
   神が覚えていてくださったことを喜び、
   西からも東からも
   聖なる者の言葉によって集められる。
6 お前の子らは敵に追い立てられ、
   徒歩でお前のもとを去ったが、
   神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、
   栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。
7 すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、
   谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。
   それはイスラエルが神の栄光に包まれ、
   安全に歩むため。
8 森も、香り高いすべての木々も、
   神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。
9 神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、
   喜びのうちにイスラエルを導かれる。
第一朗読  バルク書5章1―9節

 栄光・ドクサ
 

この語は動詞ドケオー〈考える〉から派生した名詞で、「(ある事柄や他人に対する)考え」や、「(他人から与えられる)評価・誉れ」を意味しますが、新約聖書ではもっぱら後者の意味で使われます。婚宴に招待された客が末席に座われば、上席を与えられ、同席の人皆の前で「面目」があります(ルカ14:10)。人間からの「誉れ」を求めないパウロにとって(1テサ2:6)、テサロニケの信徒が彼の「誉れ」となります(2:20)。
しかし、七十人訳では、「輝き・栄光」の意味で使われています。それは王や王国の「繁栄」を表したり(マタ4:8、6:29など)、終わりの日に王座につく人の子の「栄光」を表したりします(マコ8:38、13:26)。また、天使のような天的存在や(ルカ2:9、ヘブ9:5)、神に使われ、顕現する神の「輝き」をも表します。ですから、神は「栄光の神」・「栄光の父」と呼ばれます(使7:2、エフェ1:17)。
今週の朗読では合計六回使われており、いずれも神の「栄光」を表していると言えます。人に現れる栄光も、出所をたぐれば神に行き着きます。
 

 

第二朗読
フィリピの信徒への手紙 1章4―6・8―11節

4   あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5   それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6   あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
8   わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
9   わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1章4―6、8―11節

 見分ける・ドキマゾー
  
 この動詞は、もともと「金銀など金属の真偽を試す」を意味します。そこから、まず、「試す、吟味する」の意味で用いられます。牛を買った人はそれが役に立つかどうかを「調べ」に行き(ルカ14:19)、偽善者は空や地の模様を「見分ける」ことは知っているが、今の時を「見分ける」ことを知らないとイエスは批判します(ルカ12:56)。
 次に、試した結果「本物として受け入れる、承認する」という意味で用いられます。何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを「わきまえる」ようにとパウロは勧めます(ロマ12:2)。なぜなら、キリスト者は神に「認められ」ているからです(1テサ2:4)。
 今週の朗読では、「吟味する」と「承認する」の両方の意味合いが響いているように思われます。「本当に重要なものを識別し、それを受け入れる」ことが求められています。そのためには、まずキリストの愛を豊かに受けなければなりません。キリストの十字架に示された神の愛を知るなら、本当に重要なことを見誤ることはないからです。
 

 

今週の福音
ルカによる福音書 3章1―6節

1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
   「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
   その道筋をまっすぐにせよ。
5 谷はすべて埋められ、
  山と丘はみな低くされる。
  曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
今週の福音  ルカによる福音書 3章1―6節

 洗礼・バプティスマ
   
 この語の語根は「沈める」を意味します。原始教会の洗礼は体全体を水に沈めたので、この語で表されました。イエス自身が洗礼を施したという記事はヨハネ福音書に限られていますが(ヨハ3:22・26)、イエスの死と復活を体験した使徒たちにとって洗礼は宣教活動の大きな柱になっています(マタ28:19)。
 その洗礼は「キリストの名による」洗礼であり(使2:38)、「キリストの中への」洗礼です(ロマ6:3)。キリストの中へと洗礼を受けたのですから、私たちはキリストの死にあずかって、古い自分に死にましたが、しかしこの死は、キリストと共によみがえって、新しい命に生き始めるためです(ロマ6:4)。
さらに、洗礼によってキリストと結ばれ、キリストを着た私たちは、キリストという鎧によって守られており、キリストの体において一つです(ガラ3:26―28)。
今週の福音に述べられる洗礼者ヨハネの洗礼は、水による洗礼であって、準備の洗礼でした。



 

 

 

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