C年待降節第3主日
(娘シオンよ、喜び叫べ、主はすぐ近くにおられ、聖霊と火で洗礼をお授けになる)
第一朗読 ゼファニヤ3章14―17節 14 娘シオンよ、喜び叫べ。 イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。 娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。 15 主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。 イスラエルの王なる主はお前の中におられる。 お前はもはや、災いを恐れることはない。 16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。 「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。 17 お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」 |
第一朗読 ゼファニヤ3章14―17節 娘・バト この語はもちろん父と母の間に生まれた「娘」を意味しますが、広い意味では孫娘や義理の娘を含むことができるし、ある民族に属する女性を指して「(その民族の)娘」と表現することもあります。 また、今週の朗読のように、特定の町や国が擬人化され、「娘」と呼ばれることがあります。このように比喩的に使われると、庇護すべきものへの親しみを込めた呼びかけとなります。特に預言書ではエルサレムとその住人が「娘シオンよ」と呼びかけられ、多くは救いの言葉が続きます。 例えば、神が「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。……立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ」(イザ52:1―2)と述べるとき、その住人がバビロンへと連れて行かれたシオン(エルサレム)が「娘」と呼ばれています。このような呼びかけは、神とシオンとの一体感を、しいては庇護すべきものとしての民に対して神が抱く深い愛情を表します。 |
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第二朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4―7節 4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 |
第二朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4―7節 感謝・エウカリスティアー この語は、「感謝の気持ち」「感謝の表明」を意味し、使徒教父文書では「聖体(祭儀)」を表します。 弁護士テルティロは、総督フェリクスに「感謝の気持ち」を持っていることを述べてから、パウロを疫病のような人間と言って告発します(使24:3)。 キリスト者にふさわしいことは「感謝を表すこと」であり、(エフェ5:4)、目を覚まして「感謝」を込め、ひたすら祈ることです(コロ4:2)。「感謝」の祈りは異言で語るのではなく、教会に来て間もない人にも同意できる祈りでなければなりません(1コリ14:16)。惜しまずに施す人には神の恵みが与えられており、そのことを知った者に神への「感謝」を引き起こします(2コリ9:11)。 今週の朗読では、思い煩いは大きなものであれ、小さなものであれ、すべてを「感謝」を込めて神に祈り求めるようにと勧めます。どのような苦境にあっても、神の手が差し伸べられることを信じているなら、感謝することができます。その感謝の祈りがすべての人に知られ、すべての人のものとなるように生きることが求められています。 |
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今週の福音 ルカによる福音書 3章10―18節 10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。 食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、 「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 |
今週の福音 ルカ3章10節―18節 待ち望む・プロスドカオー この語は「希望と不安の緊張の中で待ち望む」ことを表します。マルタ島の住民はパウロが蝮にかまれたのを見たとき、死ぬのではないかと「待ち受けて」いました(使28:6)。この場合には、希望よりも不安の要素のほうが勝っています。しかし、イエスを「待っていた」群衆が彼を喜び迎えたときには(ルカ8:40)、イエスに対する強い期待と希望を表しています。 また獄中の洗礼者ヨハネが自分の弟子をイエスのもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか、それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたときには(マタ11:3)、希望と不安とがせめぎ合う状態だったかも知れません。 今週の朗読には「メシアを待ち望む」群衆が登場しますが、原文では「メシアを」にあたる言葉はなく、補われた言葉です。ルカがそれを省いたのは、民衆が待望する対象は自明だったからです。自分のむなしさを知る民衆は、それほどにひたすらメシアを待ち望んでいました。 |