C年年間第5主日
汚れた唇の者がわたしたちの罪のために死んだイエスに従った

第一朗読
イザヤ書6章1―2a・3―8節

1 ウジヤ王が死んだ年のことである。
   わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2 上の方にはセラフィムがいた。
3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
   「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
   主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5 わたしは言った。
   「災いだ。わたしは滅ぼされる。
   わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。
   しかも、わたしの目は
 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
   「見よ、これがあなたの唇に触れたので
   あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
   「誰を遣わすべきか。
   誰が我々に代わって行くだろうか。」
   わたしは言った。
   「わたしがここにおります。
   わたしを遣わしてください。」
第一朗読 イザヤ書6章1―2a・3―8節

 セラフィム・サーラーフ

この語は動詞サーラフ〈燃やす〉から派生した名詞ですが、三つの意味合いで使われます。まず、荒れ野に住む「炎の蛇」を指します。荒れ野を行くイスラエルがモーセに逆らって、抗議の声を上げたとき、主は「炎の蛇」を送り、民は噛まれてしまいましたが、モーセが造った「炎の蛇」を仰ぎ見ると、命を得ることができました(民21:6・8)。
次に、動詞ウーフ〈飛ぶ〉の分詞形を伴って「飛び回る炎の蛇(あるいは竜)」を表します。ネゲブの荒れ野は、獅子や蝮のほかに、「飛び回る炎の蛇」も住む危険な場所ですが、その危険を冒してまでも、ヒゼキヤ王は使節をエジプトに派遣しました(イザ30:6)。
最後に複数形(セラーフィーム)で使われ、神話的な動物「セラフィム」を意味します(この用例は今週の朗読箇所に限られます)。この獣は三対の翼をもち、話し合うことができることから考えて人面をもち、手をももっており、おそらく、胴体は蛇のそれであると思われます。
天界に属し、神と人との仲立ちをする動物ですが、その神話上の起源は明らかではありません。
第二朗読
コリントの信徒への手紙一 15章3―8・、11節

3   最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4   葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5   ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6   次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7   次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8   そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
第二朗読 コリントの信徒への手紙一 15章3―8・、11節

 伝える・パラディドーミ

 この動詞はまず、「手渡す、託す」を意味します。主人は僕たちに財産を「預け」て旅行に出かけ(マタ25:14)、悪魔は自分に「任されている」権力と繁栄をすべて与えようと言って、イエスを誘惑します(ルカ4:6)。
 次に「引き渡す、売り渡す、見放す」の意味で用いられ、特に、ユダがイエスを「裏切る」の意味を表します。洗礼者ヨハネは「捕らえられ」(マタ4:12)、イエスは自分を「裏切る」者がいることを知っており(マタ26:21)、祭司長たちはイエスを「引き渡しました」(マコ15:10)。
 さらに、口伝や成文化された伝承を「次へ渡す、伝える」を意味します。今週の朗読はこの意味で用いられています。パウロはかつて教会の迫害者であり、男女を問わず縛り上げて獄に「投じ」ました(使22:4)。しかし今は、教会の伝承を「伝える」者となり、最後にはキリストのために囚人としてローマ人の手に「引き渡されます」(使28:17)。パウロはキリストに呼びかけられて、キリストを引き渡す者から、キリストを伝える者に変えられました
今週の福音
ルカ5章1―11節

1   イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2   イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。 漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3   そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4   話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5   シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。  しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6   そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7   そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8   これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9   とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った
今週の福音 ルカ5章1―11節

 漁師・ハリエウス

 この語の新約聖書における用例はわずか5回ですが、いずれも弟子の召命の物語での用例です。マタイとマルコの召命物語では、湖で網を打ち魚を捕っていた「漁師」が、イエスとの出会いを通して、人間をとる「漁師」に変えられたと記されています(マコ1:16―20、マタ4:18―22)。ここでは、同じ言葉を使うことによって、職業(=使命)の変化が巧みに表現されています。
しかし、ルカの並行記事(今週の福音)では一度しか使われていません(5:2)。新共同訳は10節を「人間をとる漁師」と訳していますが、原文を直訳すれば、「人間を生け捕りにする者」であって、ハリエウス〈漁師〉は使われていません。「生け捕りにする(ゾーグレオー)」は2テモ2:26では「悪魔によって生け捕りにされ、その意のままにされる」といった悪い意味ですが、ここでは「人間をとらえて、神の支配のもとで生かす」の意味です。ルカの興味は「漁師」から、神の言葉がもたらす「大漁」に移されたからかも知れません。

 

 

 

今週の朗読のキーワードに戻る