C年四旬節第2主日
(裂かれた動物の間を通り過ぎ、万物を支配下に置く、イエスだけがおられた)
第一朗読
創世記 15章 5―12・17―18節 |
第一朗読 創世記15章5―12、17―18節 通り過ぎる・アーヴァル この語は非常に広い意味合いを持った動詞ですが、次の四つの用法に要約できます。まず、「何かを通り越して行く」を意味します。アブラハムは三人の人に「疲れをいやしてから、〈お出かけください〉」と述べて、食事を差し出します(創18:5)。 次に「(二つの地点の間の動きを表して)渡る」ことを表します。約束の地へとヨルダン川を「渡る」という用例は多く見られますが、この語によって障害物の克服が言い表されます(申27:3)。 さらに「(比喩的な意味で)通り越す=まさっている」ことを指します。イスラエルの悪事は他の国を越えて「限りがない」ほどです(エレ5:28)。 最後に「契約や掟の求めを越えて飛び出す=破る」の意味にもなります。主が悪とすることを行って契約を「破る」者がいたら、よく調べなければなりません(申17:2)。 今週の朗読では、切り裂かれて二列に並べられた動物の間を「通り越して行く」の意味です。この仕草は、エレ34:18から見て、契約を結ぶ際に行われた、遵守の宣誓として説明されます。 |
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第二朗読
フィリピの信徒への手紙 3章20節―4章1節 |
第二朗読 フィリピの信徒への手紙 3章20節―4章1節 冠・ステファノス 新約聖書では18回の用例がありますが、最も多いのは、8回の黙示録です。 まず、文字どおりに「輪、冠」を意味します。イエスは茨の「冠」を頭に載せられ、侮辱を受けましたが(マタ27:29)、二十四人の長老は頭に金の「冠」をかぶって玉座のまわりに座り(黙4:4)、人の子のような方は金の「冠」をかぶり、白い雲の上に座ります(黙14:14)。 次に、転義して、王冠のイメージが多少薄れ、「賞、報酬」を表します。主が来られるのをひたすら待ち望む人には義の「栄冠」が与えられ(2テモ4:8)、試練を耐え忍ぶ人は命の「冠」を受けます(ヤコ1:12)。 また、誰かにとって飾りや誉れとなるものを表します。パウロにとって彼がキリストへと招いた人々は、彼の「冠」です。今週の朗読は、この用例にあたります。パウロはテサロニケの信徒も、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき「冠」と呼びます(1テサ2:19)。キリストが確かに死を打ち破る勝利の誉れを受けたから、キリスト者も「冠」を受けることができます。 |
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今週の福音
ルカによる福音書 9章28―36節 |
今週の福音 ルカによる福音書 9章28―36節 雲・ネフェレー 比較的雨量の多いエルサレムでも、雨は日本の三分の一ぐらいしか降りません。ですから、雨を望んで、天を仰ぎ、雲の流れに一喜一憂していたに違いありません。そこで、ユダの手紙は行いの伴わない信仰者を、風に追われて雨を降らさぬ「雲」にたとえています(ユダ12)。また、イエスは、「雲」が西に出ると、にわか雨になると知っているのに、なぜ今の時を見分けることができないのか、と問いかけます(ルカ12:54)。 しかし、雲は天と地をつなぐシンボルにもなります。イエスは「雲」に覆われて天に昇り(使1:9)、終わりの日に「雲」に乗って降って来ると(マタ24:30)、私たちも「雲」に包まれて引き上げられ、空中でイエスに出会うことになります(1テサ4:17)。今週の福音では、「雲」が弟子たちを覆い、その中から、イエスに聞くようにという声が響きます。 空を雲が流れるとき、我々の思いはその行き先に向かいますが、そのような雲が我々を導く神の現存の象徴とされるのも理由のないことではありません。 |