C年キリストの聖体
パンとぶどう酒を持って来て感謝の祈りをささげすべての人が食べて満腹した

第一朗読


創世記14章18―20節

18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た
19 彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神に
アブラムは祝福されますように。
20 敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

第一朗読

十分の一・マアセール

 この語そのものは単純に「十分の一」を意味します。例えば、エゼ45:11「一バトは一オホメルの十分の一」では、文字通りに「分量の一割」の意味です。
しかし、ほとんどの用例では、税を表す用語となっています。その場合、王が徴収する世俗の税としての「十分の一」もありますが(サム上8:15・17)、いっそう重要なのは聖所へ定期的に納入する「十分の一」です。
 申命記によると、収穫物の「十分の一」を聖所へ携えて供え物とし、その後、主の前で家族と共に食べますが、三年目ごとに町に蓄えておき、レビ人や寄留者や孤児や寡婦が食べられるようにするとされています(申14:22―29、レビ27:30―33を参照)。しかし、民数記では、「十分の一」は嗣業を持たないレビ人に与えられ、レビ人はそのうちの「十分の一」を主への献納物としてささげることになっています(民18:20―32)。
 今週の朗読では、メルキゼデクの祝福に対する返礼としての贈り物を意味しています。しかし、この14:18―20は祭司の権利を正統化するために後に加えられたのではないか、と言われます。

 

 

第二朗読

コリントの信徒への手紙一 11章23―26節

23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、も同じようにして、「このは、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べこのを飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

第二朗読


杯・ポテーリオン

 まず、文字どおりに「杯、飲用容器」を意味します。「杯」の外側をきれいにすることにこだわる律法学者やファリサイ派の人たちは不幸ですが(マタ23:25、26)、キリストの弟子に「一杯」の水を飲ませる者は祝福されます(マコ9:41)。主の晩餐でイエスは「杯」を取り、感謝の祈りを唱え、弟子に渡し(マタ26:27)、その「杯」は新しい契約であると教えました(ルカ22:20)。
 転義して、暴力による死(殉教)を表します。ゲツセマネの園でイエスはこの「杯」を過ぎ去らせてくださいと神に祈り(マタ26:39並行)、父が与えた「杯」は飲むべきだと決意します(ヨハ18:11)。イエスの弟子はイエスの「杯」を飲むことになり(マタ20:23)、神は大バビロンに激しい怒りのぶどう酒の「杯」を与えました(黙16:19)。
 今週の朗読に、「杯を飲む」とありますが、これは杯の中身を表す換喩と説明されることがあります。しかしここでは、杯から飲むという行為に主眼があると考えるのがよいと思われます。主イエスを囲んで、共に食べて飲むという交わりの中で、教会は命を与えられます。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 9章11b―17節

11 イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

今週の福音


仰ぐ・アナブレポー

 この語は接頭辞アナ〈上に・再び〉と動詞ブレポー〈見る〉とからなる合成動詞で、まず(1)文字通りに「見上げる」を意味します。イエスは「上を見上げて」、いちじく桑の木に登ったザアカイに声をかけ(ルカ19:5)、イエスが葬られた墓に急いだ女性たちが「目を上げて」みると、石が転がされていました(マコ16:4)。
 次に(2)「(視力が回復し)再び見えるようになる」の意味にもなります。アナニアが視力を失ったサウロに「元どおり見えるようになりなさい」と命じると、サウロは「見えるようになった」と記されています(使22:13)。
 最後に(3)「(生まれながらに目の不自由な人が)見えるようになる」の意味でも使われます。生まれつき目の見えなかった人がイエスの指示に従ってシロアムの池で目を洗うと、「見えるようになりました」(ヨハ9:11)。
今週の福音での用法は、(1)に属しており、神に祈る者のとる姿勢を表す言葉として用いられています。


 

 

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