C年年間第15主日
御言葉はあなたのごく近くにあり十字架の血によって平和を打ち立て追いはぎに襲われた人の隣人となった

第一朗読


申命記 30章10―14節

10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

第一朗読

難しい・パーラー

 この動詞はニファル(受動)形では次のように使われます。(1)「行うのが難しい」。アムノンはタマルを愛したが、異母妹であったので、手出しをすることは「思いもよらぬ」ことであった(サム下13:2)。
 (2)「理解するのが難しい」。大き過ぎること、私の及ばぬ「驚くべきこと」を追い求めません(詩131:1)。
 (3)「尋常ではなく、素晴らしい」。兄弟ヨナタンよ、女の愛にまさる「驚くべき」あなたの愛(サム下1:26)。
 (4)単数の分詞形で「驚くべきこと」、また複数の分詞形で「裁きや救いに示される神の驚くべき業」を表します。ヨブよ、神の「驚くべき御業」をよく考えよ(ヨブ37:14)。神は自ら手を下し、あらゆる「驚くべき業」をエジプトの中で行い、これを打つ(出3:20)。私は心を尽くして主に感謝をささげ、「驚くべき御業」をすべて語り伝えよう(詩9:2)。
 今週の朗読では(1)と(2)を同時に含むと解釈すべきかもしれません。そうであれば、モーセが命じる戒めは「行うことも、理解することも難しいものではない」の意味になります。

 

 

第二朗読

コロサイの信徒への手紙 1章15―20節

15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ
20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

第二朗読


宿る・カトイケオー

 この語は「住む、住居を定める、移住する」を意味します。新約聖書では44回用いられますが、福音書の用例はわずかで、使徒言行録と黙示録に多く用いられています。
 まず、ごく一般的にある場所に「住む」の意味で用いられます。エジプトから帰国した聖家族はナザレという町に「住み」(マタ2:23)、いと高き方は人の手で造ったようなものには「お住みになりません」(使7:48)。
 次に、神、キリスト、聖霊、その他の超自然的存在や徳などが人間に「宿る」を意味します。悪霊は自分よりも悪い七つの霊を連れて来て「住み着き」ますが(マタ12:45並行)、キリスト者は信仰によってキリストを心のうちに「住まわせ」(エフェ3:17)、新しい天と地には義が「宿ります」(2ペト3:13)。
 今週の朗読では、神は御心のままに、御子に満ちあふれるものを「宿らせた」と述べられています。御子のうちにはすべての満ちあふれる神性が宿っているから、御子は神の思いを私たちに見せることができます。ですから、人が神の救いを見るのは、御子が宿るときです。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 10章25―37節

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い
34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

今週の福音


憐れに思う・スプランクニゾマイ

 この語は名詞スプランクノン〈はらわた〉と同根の動詞です。動詞としての用例は共観福音書にかぎられており、全部で12回使われています。
 そのうち9回はイエスに使われています。イエスは重い皮膚病に苦しむ人を「憐れんで」清め(マコ1:41)、群衆を「憐れんで」教え(マコ6:34)、食べ物を与えて満腹させ(マコ8:2)、病人をいやします(マタ14:14)。さらに、汚れた霊に取りつかれた子供を「憐れんで」いやし(マコ9:22)、目の不自由な人を「憐れんで」触れて治し(マタ20:34)、一人息子をなくしたやもめを「憐れんで」よみがえらせます(ルカ7:13)。
 残りの三例はたとえ話に登場する人物に使われます。それは一万タラントンの借金を返せない家来を「憐れむ」主人であり(マタ18:27)、放蕩息子を見て「憐れに思い」走りよる父親であり(ルカ15:20)、今週の福音のサマリア人です。最初の二例が神の憐れみをたとえているのは明らかですから、サマリア人によって神が表されているとも言えます。
 惨めなわたしたちを誰よりもまず先に「見て憐れに思い、近づいて」隣人となってくれたのは神です。神がはらわたを震わせて「憐れに思う」気持ちに触れるとき、わたしたちも同じ行動に駆り立てられます。


 

 

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