第一朗読
ハバクク書 1章2―3節・2章2―4節
2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
あなたは助けてくださらない。
3 どうして、あなたはわたしに災いを見させ
労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり
争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
2 主はわたしに答えて、言われた。
「幻を書き記せ。
走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
3 定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない。
4 見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
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第一朗読
待っておれ・ハーハー
この語は基本的には「控えめで、持続する待機」を意味します。まず(1)「待つ・とどまる」を表します。王下9:3「油の壷を取って彼の頭に油を注いで言いなさい…そして戸を開けて逃げて来なさい。<ぐずぐずしていてはならない>」の傍線部はこの動詞の否定形です。報告を遅らせ、朝日が昇るまで「待っている」のはよいことではありません(王下7:9)。
次に(2)「(攻撃のために)待ち伏せる」の意味になります。祭司の一団は「待ち伏せる」強盗のように、シケムへの道で人を殺します(ホセ6:9)。
最後に(3)「待ち望む」を意味します。我らの魂は、助けであり盾である主を「待ち」ます(詩33:20)。民は御業を忘れ、神の計らいを「待たず」、荒れ野で神を試みました(詩106:13)。ヨブは死を「待っている」が、望みはかなえられません(ヨブ3:21)。神に使われる用例もあります。主は恵みを与えようとして民を「待ちます」(イザ30:18)。
今週の朗読では、(3)の用例に属すでしょうが、「控えめで、持続する待機」といった意味合いも響いているかもしれません。
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第二朗読
テモテへの手紙二 1章6―8、13―14節
6
そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。7 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。8 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。14
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
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第二朗読
守る・フュラッソー
まず、能動態で「見張りをする、監視する、警護する」を意味します。羊飼いたちは夜通し羊の「番をしていて」、天使から救いの知らせを聞き(ルカ2:8)、イエスが「保護した」ので、滅びの子のほかはだれも滅びませんでした(ヨハ17:12)。
また、律法、戒め、指示、命令などを「守る、従う」の意味で用いられます。永遠の命を得るための行いをイエスに尋ねた者は、それらはみな「守ってきました」と言い(マタ19:20並行)、イエスは自分の言葉を「守ら」ない者がいても、裁かないと言います(ヨハ12:47)。
次に、中動態で「注意する、用心する、避ける」を意味します。どんな貪欲にも注意を払い、「用心しなさい」とイエスは教え(ルカ12:15)、異邦人の信者たちはみだらな行いを「避けるように」と命じられます(使21:25)。
今週の朗読では、テモテはゆだねられている良いものを「守りなさい」と命じられています。しかし、守るのはテモテひとりではありません。神が与えた良いものを失うことがないように、私たちのうちに住む聖霊が助けます。
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今週の福音
ルカによる福音書 17章5―10節
5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8
むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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今週の福音
帯を締める・ペリゾーンニューミ
この語は接頭辞ペリ〈まわりに〉と動詞ゾーンニュオー〈帯を締める〉とによる合成動詞ですから「(腰の)まわりに帯を締める」の意味です。長い上着を腰に帯を締めてたくし上げ、活動しやすくする風習から、この語は「腰に帯を締めて、仕事や活動に備える」ことを表します。
イエスは弟子たちに「<腰に帯を締め>、ともし火をともしていなさい」(ルカ12:35)と教えますが、傍線部を直訳すれば「あなたがたの腰が締められてあれ」となります。この言い回しは、すでに起こっている状態を継続せよ、ということを表します。しかし、続くルカ12:37「…はっきり言っておくが、主人は<帯を締めて>、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」では中動態ですから、「自分で自分の腰に帯を締め」といったニュアンスになり、主人の自発性が強調されています。
今週の朗読でも中動態が使われており、主人に進んで仕えねばならない僕の姿が表されています。
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