C年年間第30主日
御旨に従って主に仕え決められた道を走りへりくだる者は高められる

第一朗読


シラ書 35章15b―17、20―22a節

15b 主は裁く方であり、
     人を偏り見られることはないからだ。
16 貧しいからといって主はえこひいきされないが、
     虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
17 主はみなしごの願いを無視されず、
     やもめの訴える苦情を顧みられる。
20 御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、
     その祈りは雲にまで届く。
21 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
     それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
     彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
22a 正しい人々のために裁きをなし、
  正義を行われるときまで。

第一朗読

御旨・エウドキアー

 この語は動詞エウドケオーからの造語で、ユダヤ教やキリスト教文書にのみ使われます(エウドケオーについてはB年「主の洗礼」号11頁を参照)。七十人訳では28回使われ、そのうち16例がシラ書での用例です。ここではシラ書の用例に注目します。この語は「喜び」とか「意志」といった意味を表し、人間にも神にも使われます。
 人間に使われる用例では、善い意味にも悪い意味にもなります。陶器職人は粘土を「思うままに」形作ります(33:13)。不信仰な人の「成功(喜び)」をねたむことなく(9:12)、掟を「快く」実行すべきです(15:15)。
 一方、主の「御心」は信仰深い人を成功に導くことであり(11:17)、その「喜び」は悪事に手を染めない人に向けられます(35:5)。また、朝早く主を求める人たちは「(主からの)称賛」を見出し(32:14)、主が命じられると、すべて「御心のままに」実現します(39:18)。
 今週の朗読では、「御旨」と訳されていますが、人間の喜びをも含意しているかもしれません。神も、人も神に仕えることを喜びとするからです。

 

 

第二朗読

テモテへの手紙 U 4章6―8、16―18節

6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
 16 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。17 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。18 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

第二朗読


授ける・アポディドーミ

 この動詞は接頭辞アポ〈から〉と動詞ディドーミ〈与える〉からなる合成動詞であり、まず、「引き渡す、差し出す、支払う」を意味します。ぶどう園の主人は労働者たちに賃金を「払い」(マタ20:8)、ピラトはイエスの遺体を「渡す」ように命じました(マタ27:58)。
 次に、「返す、戻す」の意味で用いられます。イエスは子供をいやして父親に「返し」(ルカ9:42)、ザアカイは不正に取り立てた税金があれば、四倍にして「返す」と約束しました(ルカ19:8)。
 さらに、良い意味でも悪い意味でも「報いる」を意味します。隠れたことを見ている神は「報いてくださる」から(マタ6:4)、悪に悪を「返さず」にいることができます(ロマ12:17)。
 また、中動態では「売る、手放す」も意味します。族長たちはヨセフをエジプトへ「売り」(使7:9)、エサウは長子の権利を「譲り渡しました」(ヘブ12:16)。
 今週の朗読では、「授ける」と訳されていますが、ここには「返す」という意味も響いています。主は、パウロだけでなく主を信じるすべての者に取ってある義の栄冠を返す日を待っています。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 18章9―14節

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今週の福音


うぬぼれる・ペイソー

 この動詞は、まず「説得する、納得させる」を意味します。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の「説得に努め」ましたが(使18:4)、「説き伏せた」と非難されることもありました(使19:26)。このように、「言いくるめる」という悪い意味が込められることもあり、また、「取り入る」(使12:20)、「なだめる」という意味で「うまく説得する」という用例も見られます(マタ28:14)。
 次に、完了と過去完了で用いられると「信頼する、確信する」を意味します。パウロはフィレモンが頼みを聞き入れてくれると「信じて」おり(フィレ21)、善い業を始めた方がそれを完成すると「確信しています」(フィリ1:6)。
 今週の朗読でイエスは、自分は正しい人間だと「うぬぼれて」いる人々を非難しています。彼らは自分を「信頼して」、他人を見下しています。彼らの過ちを明らかにし、人が真に信頼すべきものを示すために、イエスは神に「頼って」(マタ27:43)、十字架に上りました。


 

 

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