シリア・ヨルダン旅行記

 

第1講話 
2001.9.5(水)
於:アナニア教会
パウロの回心 I
(1)回心の描写

a)使徒言行録9章1−19


 まず使徒行録9章1節から9節までを読みます。
 
  さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エレサレムへ連行するためであった。 
 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答があった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声が聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも、飲みもしなかった。
b)ガラテアの信徒への手紙1章13−17
 あなたがたは、わたしがかってユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、血肉に相談するようなことはせず、また、エレサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、――――
この「アラビア」がどこかということは良く分かりませんが、何日か後に、我々が訪問するペトラである可能性は非常に高いと思われます。
(アラビアに退いて、)そこから再びダマスコに戻ったのでした。
  「再び」と書いてありますから、おそらく、「神が、御心のままに、御子をわたしに示した」というこの出来事は、ダマスコの近郊で起こったことはほぼ間違いない。
でなければ、「再びダマスコに」とは書けない。
 もう一度まとめますが、使徒言行録の方では、迫害に向かうときに突然回心が起こった、と書いてあります。ガラテアの信徒への手紙の方でも、おそらく、ダマスコの近郊で「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心であったパウロに、神が御子を示した」と書いてあります。
 だから、「わたし」を主語にしている文章から、突然「神」に主語を変えていますから、これはパウロの人間としての中側からの変化ではなくて、外側から加えられた変化だというふうに捉えられています。
 だから迫害に向かっていたパウロは、ダマスコの近郊で神の突然の介入によって、ということになります。だから我々の回心とは程度が違います。
 我々の回心は、例えば私でしたら、ホイヴェルス神父さまに接し、反省いたしまして、回心するのですが、ところが、パウロの場合はそれと違いまして、迫害に向かって突き進んで行くパウロに対して、直接、神が介入いたしました。
 それをどういうふうに捉えたらいいかということで問題にいたしましたけれども、それは、直接パウロが回心した、と伝えられている場所に行きますので、そこでお話ししたいと思いますので、今は、「真っ直ぐの通り」に来たところですから、回心の出来事の後の場合についてお話ししたいと思います。

ダマスコの直線通り(使9章11節)の入口

使徒言行録を続いて読みたいと思います。使徒言行録9章の10節から。
 ところで、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニヤ」と呼びかけると、アナニヤは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニヤという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニヤは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。そこで、アナニヤは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 

ダマスコの直線通り(使9章11節)

  この出来事が何年ぐらいに起こっているかと言いますと、聖書には正確に記載した記事がありませんので推定するしかありませんが、手掛かりとなりますのは、「エルサレム使徒会議」というのがありますが、それが48年ごろであろうと言われております。それはまず間違いがない。それからガラテアの信徒への手紙に書かれている年数を引いていきますと、大体33年から35年ごろ、おそらく33年ぐらいであろうと言われています。
 イエスの死というのもよく分かっていませんが、27年ごろと言う人もいますし、33年ごろと考える人もいます。真ん中をとって30年としましても、パウロの回心はおそらく数年のうちに起こっているということです。正確には分かりませんが、33年ごろ、キリスト者を迫害するために―――、ただし覚えておいていただきたいのですが、キリスト教というものと、それからユダヤ教がはっきりと区別されるのは1世紀の終わりごろです。だからパウロが迫害に向かったときに、キリスト教徒という意識がはっきりあったかどうかはかなり問題があります。
 勿論、イエスをキリストと信じる人たちの集まりなんですが、イエスをキリスト・メシアと信じることであれば、ユダヤ教徒にとっては非常に大きな問題になります。
 もちろん現代はそのように考えられておりますが、問題は律法理解にあります。
律法を信仰の中にどう位置付けるかということをめぐって、ユダヤ教とキリスト教がはっきりと分かれていったわけです。
 ですからパウロが迫害しようとしたキリスト者なんですが、イエスをキリストとして信じる人たちという点では同じなんですが、どのくらい自分たちがユダヤ教から離れた新しい宗教であるか、ということを自覚していたかどうかはかなりあいまいであるということです。
 ですから、ユダヤ人がいるところにはキリスト教徒――(「キリスト教徒」と言ってよいかどうかは分かりませんが)つまり、イエスをメシアと信じるユダヤ教、と言ったら良いのか、キリスト教と言っていいかどうか、その辺はまだあいまいですが、この様な人たちが、ユダヤ教が伝わっていったときにかなり早い段階から存在したということです。
 この人たちがどのくらいの力を持っていたかは分かりません。だから、パウロが迫害しようと考えてダマスコに来るわけですけれども、そのグループがどれほどの人数であったかはかなりあいまいだということです。
 とにかく、このアナニヤという人物が出てまいります。先ほどガイドさんから初代ダマスコの司教であったとの話がありましたが、アナニヤという人物の名前は聖書ではこの場所にしか出てまいりません。他には全然出ておりません。だから、少なくとも司教になったとの話はまったくありません。司教になったとすればずっとあとの話です。
 それで学者たちがどう考えたかと言いますと――、もしこれがまったくの捏造であるなら、もっと有名人を持ってくるでしょう、だからここで無名の人が出てきて、パウロに洗礼を施すということが事実無根であるかどうかという事は別にして、この出来事があったということについては、まず問題がないだろうと考えられております。
 ですから、今日、我々が事実であったかを問題にするかどうかは別の問題として、事実であったということ、あの壁の内側であったということ、この「真っ直ぐ通り」という名前が出てきますから、多分、この辺で、33年ぐらいにイエス・キリストを信じる者を愚か者と考えたパウロが、神に熱心に仕えようと思って、意気揚揚とやって来て、その人たちの目を覚まさせるためにも迫害してきた。迫害しようとやって来た途中で、回心してしまって、その回心もパウロが、異邦人にイエスを告げ知らせるために、神が回心させた、とパウロは理解していましたし、使徒言行録にもそう書いてあります。
 だから、33年ごろ徹底的に神様に仕えようと考えていたパウロが、イエスをメシアと信じている人たちを何としても矯正する必要があると考えた。そのためにやって来たパウロに、神が介入して、生き方を変えてしまいました。
 だから、ある人はこのように書いております。
 「パウロの回心は迫害する者から、迫害される者への回心である。」
 神のみ旨についてのパウロの考えは全く間違っていて、実は私が勝手に考えていた神様のみ旨ではなく、ダマスコの途中で示された神のみ旨、それが真の神のみ旨だと気がついて迫害する者から迫害される者へと変わっていきました。
 
最後お祈りで締めくくりたいと思います。
 父と子と聖霊によって。アーメン
主よ、私たちが目も見えず、この世の価値観が、この世の常識が見えなくなっています。あなたのみ旨がどこにあるのか、これを見る新しい目をお与えください。パウロに倣って、私たちも目の見えない者となり、そしてあなたのみ旨をしっかりと認識する新しい目を私たちにお与えください。
 主よ、私たちは確かに、ふつつかな僕で、パウロのように迫害するにせよ迫害されるにせよ、あなたに仕えることができたと言えるような者ではありませんけれども、しかし、私たちのために働いてくださることを信じます。
 主よ、新しい目を私たちにお与えください。あなたのみ旨がどこにあるのか分かりますように。
 私たちの主、イエスキリストによって。アーメン
撮影 : 雨宮 慧
※「パウロの回心」は第4講話に続きます。
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