シリア・ヨルダン旅行記

 

第4講話-I 
2001.9.11
「コーカブの丘」見学後、車中にて
パウロの回心 II
第一講話「パウロの回心 I」の続きです。
※アンマンのホテルにて米テロ情報入る。
(I) 回心の描写
a)ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節
  使徒言行録9章1-16節
 
  ダマスカスに最初に着いたときに、アナニア教会でお話ししたことの繰り返しのようなことからまず始めたいと思います。
 この回心の描写、聖書に残されているパウロの回心の描写は、使徒言行録とガラテアの信徒への手紙に残されていると言っていいわけです。まずガラテヤの信徒への手紙の1章の13節以降ですが、こちらはパウロ自身の手による描写ということになります。描写ということが適当であるかどうかは問題ですけれども、とにかく、パウロが自分の回心について書いている個所は、この個所と他にフィリピの信徒への手紙3章(後で読みますけれど)、この個所ぐらいしかないということです。
 ガラテヤ1章13節からですが、

 

      13あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、17また、エレサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
 
まず、主語が「わたし」になっていることに注意してください。「徹底的に神の教会を迫害し」と書いています。15節ですが、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」というように、ずいぶん長々と神を説明する言葉がついています。これは全部旧約聖書からのイメージを使っているわけですが、それをお話しするのは止めまして・・・・・。そのあと16節で、また主語が「わたし」に戻ってまいります。色をつけてある個所にちょっと注意を払ってください。
 続いて使徒言行録の9章1節から16節です。これはルカ福音書を書いた人、普通ルカと呼ばれるわけですが、ルカが描写しているパウロの回心の場面ということになります。

1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エレサレムに連行するためであった。
「この道」という表現ですが、これは、ルカ福音書や使徒言行録では、「キリスト者」を表す表現になっています。「この道に従う者」、「この道の者」ということです。そして3節です。
3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
 10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
 
一応ここで切ってあるのですが、このガラテヤの信徒への手紙(パウロ自身の描写)とルカによる描写にはかなりの違いがあります。ルカの方の描写によりますと、絵画的と言いますか、非常に物語的に描かれていますが、それに対してパウロ自身の文章によりますと「神が御心のままに御子をわたしに示して」これしか書いていませんので、具体的にどのように御子が示されたのか、それがどのような次第であったか、一切書いていないのです。パウロにとって重大な出来事のはずですから、もっと華々しい出来事として、自分自身で書いても良さそうなものですけれども、パウロは全くそれを行っていない。
 ですから、そのことを今、考えてみたいわけですが、その前に、これは以前お話しした事ですが、ルカの描写とパウロ自身の文書との共通点を確認しておきたいと思います。
 まず黄緑をつけておいたところですが、ガラテヤの信徒への手紙では、「徹底的に神の教会を迫害し」と出てまいります。また「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で」とも書いています。つまり、キリスト者を迫害することに熱心だったパウロということが書いてありますね。使徒言行録の9章2節ですが、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エレサレムに連行するためであった」に傍線をつけてあります。文章はちょっと違っていますけれども、迫害のためということは明らかです。だから、パウロはキリスト者を迫害する、ということに非常に熱心であったということは言われている、と言って良いと思いますね。
 それから、ガラテヤの信徒への手紙の17節の方ですが、「再びダマスコに戻ったのでした」とあります。「再び」という言葉を使っていますから、この出来事、つまり、「神が、御心のままに御子をわたしに示した」という出来事ですけれども、これはダマスコの近くで起こっていると考えても差し障りがないだろうということですね。使徒言行録の方ですが、9章3節「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき」と、はっきりとダマスコ近郊だと、ルカは書いております。だからダマスコ近郊で起こった出来事であるということも、ガラテヤの信徒への手紙と使徒言行録とが一致しているということです。
 それで次の事ですが(これは何度も繰り返していることですが)、ガラテヤの信徒への手紙1章によりますと、13節の途中から14節にかけて主語は「わたし」になっております。この「わたし」はどういう「わたし」であるかと言いますと、「神の教会を迫害し、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、ユダヤ教に徹しようとしていた」わたし、です。15節になりますと、突然主語が変わりまして、「神が御心のままに御子をわたしに示して」。この主語の突然の変化ですが、これはやはりパウロにとりまして、この出来事はそろそろ起こりそうだと予測された出来事ではなく、全く神からの突然の介入として受け取られているということです。

 使徒言行録の方ですが、「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」とあります。ルカは非常に絵画的に描写していますから、「天からの光が彼の周りを照らした」という描写になっていますけれど、今、注意したいのは、ここに「突然天からの光」というふうに描かれていることです。つまり、どちらもパウロにとっては、予期せぬ突発的な出来事として捉えられているということです。
 それで最後ですが、これはガラテヤの信徒への手紙の1章16節にあることですが、「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせようとされたとき」とあります。つまりパウロの回心の出来事は、福音を異邦人へと告げ知らせる出来事であったとされているのです。これは使徒言行録の方ですと9章15節に、「行け。あの者は、異邦人や王たち」と書いてあります。「またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」とあります。ですから、ここでも異邦人宣教ということが視野に置かれているということです。

 そこでこの二つの記述に共通の要素をまとめておきました。
b)二つの記述に共通する要素
1.イエスをキリストと信じる者を迫害するために
2.ダマスコへと向かったパウロはその近郊で
3.神が突然、介入したが
4.それは福音を異邦人に告げ知らせるためであった
この四つの点において両方の記述は重なると言って良いと思います。ですから、ルカはおそらく(パウロから直接であったかどうかは別として)パウロに起きたこの出来事の本質のようなものを聞いていて、それをルカが絵画的に仕上げていったという可能性があると思います。とにかく、大切なことは「迫害しようとしていたパウロがダマスコの近郊で、神からの突然の介入を受けた。それは福音を異邦人に告げ知らせるためであった」というふうに、パウロの回心の出来事が捉えられていることは明らかだ、ということですね。
 ところで、先ほどから申し上げていることですが、ルカが非常に絵画的に描写しているのに、パウロ自身はなぜ、それとは気づかないような、実に控え目な表現で自分の回心を表しているのかということですが、もう一度ガラテヤの信徒への手紙1章の15節ですが、「神が、御心のままに、御子をわたしに示して」、これしか書いてくれていないのです。実に控え目な文章ですけれども、これは一体なぜかということについては、次回にお話したいと思います。

撮影 : 雨宮 慧

 ジェラシ 遺跡入り口
 ジェラシ 南の劇場

BGM:Jesu Joy of Man's Desiring by J. S. Bach